雨、神。


 ガタゴトと電車に揺られて僕は家に向かっていた。学校帰り。雨の日だった。

 その日、僕は傘を忘れていてずぶ濡れだった。その状態で電車に乗っていたのだ。幸いにも電車はある程度空いてはいたものの、それでも人の目は気になるしできるだけ周りに迷惑をかけたくはない。だから僕は車両の角によりかかり、家の最寄り駅までの1時間をじっと耐えていた。

 ふと、丁度電車が30分ぐらい走った頃、ずぶ濡れの女子高生が電車に乗ってきた。普通ならそれはそれで気にすることではない。けれど、僕にはそれを気にすることしかできなかった。彼女は電車に乗って周りを見渡すなり、僕の目に向かい合うようにじっと立ち尽くしていた。

「……ん? なにか用なのか?」

 僕はなんとなく、そうその子に問いかけてみた。すると彼女はふわりとやわらかそうな笑みを浮かべた。本当にその笑顔はやわらかそうで、触れると潰れてしまいそうだった。

「びしょ濡れですね」

 たっぷり1分ぐらい時間をおくと、彼女が答えた。びしょ濡れですね。そんなことは見ればわかる。それに、そんなことを言う君もびしょ濡れじゃないか。……そう言おうとしたけれどやめた。思ったことをすぐ言えるほど僕は誠実ではないし、なにより話をするには疲れすぎていた。

「今日、雨が降るなんて私知らなかったんですよ。だから、傘忘れちゃいまして……ほら、私も濡れ鼠」

 僕が黙ったままでいると、なにが楽しいのか彼女は実に嬉しそうに自分の姿を語った。だからどうだというのだろう。

 と、更に3分ぐらい僕が黙り続けていると、彼女は突然泣きそうな表情になった。そして一歩、僕に詰め寄る。僕は一歩下がろうとしたけれど、後ろには壁があって下がれなかった。

「どうしてなにも喋ってくれないんですか? 私のこと、嫌いなんですか?」

 彼女は言い終わるとまた一歩詰め寄ってくる。やれやれ、と僕は思った。嫌いも何も、初対面で好き嫌いなんて決められるわけないだろう? そもそも、突然知らない人にフレンドリーに話しかけるなんてナンセンスだ。

 まぁ今までの人生を振り返ってみて、毛の先から心臓まで全身『マトモ』な友人なんていなかったけれど、ずぶ濡れでずぶ濡れに話しかけるなんて人は初めてだ。

 と、なにも返事をしないでいると、彼女の瞳にうっすらと涙が出ているのが見えた。やれやれ、どうしてこうなるのか。

 ……たった30分の辛抱だ。話すぐらいはいいだろう。

「嫌いじゃない。知らない人間を嫌えるほど、僕はできた人間じゃない。ただ、人見知りなだけ。気にしないで」

 僕がそう言うと、彼女は瞬きで涙を散らすとぱぁっと笑顔になった。そして妙に幸せそうな笑顔で僕の顔を覗き込む。

 変なやつ。

「そうですか!! いやはや、私てっきり嫌われたのかなぁって思いましたよ」

 今にも飛び跳ねそうな勢いで喜ぶ彼女。別の表現をするなら、今にも僕の両手をつかんできそうだ。

「それでさ、なんで君は僕に話しかけてきたのかな? 理由を教えて欲しいんだけど」

 と、事の発端について訊いてみる。物事には何事にも理由があるのだ。

「今、雨が降っているのは知ってますよね?」

 知ってる、と僕は答えた。窓の外を見ればそんなことはわかることだった。

「では、雨はなんで降るのか知ってますか?」

「低気圧がどうとか。詳しくは知らない」

 そう、別に雨の降る原理なんて生きていくうえでは特に必要ではない。必要なのは「降る」のか「降らない」のか、それだけだ。

 けれど、彼女は僕の答えに少し不満があるようで、唇を尖らせた。

「ロマンがないですね、ロマンが。こう思いません? 雨は神様の涙だって」

「え?」

「だからー、お空の上で何か神様にとって嫌なことがあって、神様は泣いているんですよ。そして、その涙が地上に降り注いでいるんです。こういうのどうでしょう?」

「ふむ」と僕は言った。こういうのどうでしょう? そんなことは知らない。

「別に宗教とかそういうんじゃないんです。なんでもいいんですよ。要するに、イメージの世界の話です。イメージ。イメイジ。実際にどうだか知りません。どうして雨が降るのか、どうしてこういう向きで風が吹くのか……そういうのの細かいところすべて、人間には解き明かせません。最後にはイメージの世界になるわけです。わかりますか?」

「わからないな。君の言ってることはよくわからない」

 僕がそう答えると、彼女は少し頬を膨らませた。なんだか拗ねているらしい。

「とにかく想像力の世界なのです。現実と人間の認識の差、そこはイメージの世界です。そのイメージの世界で、私は雨は神様の涙だ、と思うのです。現実的にはただの雨だとわかっています。けれど、違うのです。考え方は一つではないのです」

「ふむ」僕は彼女の言葉を一字一句初めから思い出してみたけれど、いまいち意味がわからなかった。「で、結局僕の質問の答えを返してくれてないな。質問に質問で返された気がする」

「だから、雨は神様の涙です。そして、人はみんなその涙を嫌って生きます。雨に濡れるのを避けるんですね。そして、雨は流れていく。そういうのって、なんだかかわいそうじゃありませんか? 嫌なことがあって神様が泣いて、その涙も人間に拒まれる。誰も神様を救おうとしないのですよ?」

「む。まぁそれいいとして、結局どうして僕に話しかけてきたのさ?」

 と、彼女がもう一歩近づいてきた。あと一歩も近づかずに抱きしめられる距離になった。そんな距離で彼女は上目遣いで僕の顔をまじまじと覗き込んだ。その視線がなんだか真剣で、少しどきどきする。

「私があなたに話しかけた理由、それはあなたが神様の涙を拒まずに受け止めてくれていたからですよ。神様はそれを喜んでいる、と私は思うのです。神様は自分の一部でも受け入れてくれる人がいることを喜んでいるのです」

「変だな。君はよくわからないことを話す」

 僕が呆れ半分にそう呟くと、彼女は少し自嘲したような笑みを浮かべた。

「だって私は神様ですから。人間から見て、普通ではないですよ」