*as a sin -Ro-
たくさんの人を殺してきた。とてもじゃないが、数え切れないぐらいの人だ。
殺した人の顔はすべて覚えている。ある人は絶望した表情をして死に、ある人は悟ったように死ぬ。抗おうと立ち向かってきた人もいれば、泣き叫んで逃げ回るものもいた。
けれど、すべて等しく殺してきた。慈悲なんてものはあいにく持ち歩いちゃいない。もっているものは愛用のカタール、それのみだ。
失敗なんてしたことなかった。常に無傷で仕事を完璧にこなす。それが俺のちっぽけな誇りであった。
けれどそれがたまたま失敗してしまった時、俺は彼女と出会った。
仕事を終えた後、街の裏路地までやってくると俺は蹲った。自分の左脇腹を見る。じっとりと血が染み出している。
完全に油断していた。まさか相手が反抗してくるとは思っていなかった。冒険者でもない戦闘訓練も受けていない素人に刺されるとは思ってもいなかった。
「ふん」
腰のポーチから毒瓶を取り出す。俺はアサシンである。毒の扱いなんて朝飯前だった。毒で傷を治すことはできないが、使い方によっては神経をマヒさせることで一時的に痛みを消すことができる。怪我の治療は住み処へ戻ってからやれば何の問題もない。
毒瓶を調合しているとすぐそばで足音がした。反射的にカタールを構え、襲撃に備える。もしかすると追っ手がきたのかもしれない。それはそう珍しいことではない。仕事がいつもいつも穏便に済むとは限らないからだ。
「ひっ」
ただ、そこにいたのは予想外の人間だった。買い物袋を抱えたアコライトの女。まだ十三歳ぐらいといったところか。
アコライトの女は俺を見て怖じけづいたようだった。無理もない。アサシンと路地裏であって良いことなぞない。口封じのために殺されるだけだけだ。
始末しようとアコライトに近づく。恐怖心のせいなのか相手は全く動こうとしない。それはそれで楽だ。いくら毒で痛み止めはできるとはいえ、怪我をしていることには変わりない。できれば無駄に動き回りたくはない。
「怪我、してるの?」
しかしアコライトは俺の想像とは違い、意外な行動に出た。アコライトは俺から逃げるどころか近づいてきて、俺の傷口に手を添えると治療の魔法を唱え始めた。
正直、それで俺は混乱していた。殺そうとしたやつに傷を癒してもらう、なんて初めての経験だったからだ。
俺の傷を完全に塞いでしまうと、アコライトは俺の顔を見上げてにこりと笑った。
「もうこれで痛くないですよね?」
アコライトの目を真っすぐに見つめる。そこには恐怖といった感情は一切なく、ただ目の前の傷を塞げたことに心から安堵しているようだった。
俺は思わずそのアコライトを突き飛ばした。アコライトはまさか突き飛ばされるとは思っていなかったのか、腰を強く打ち付けた。けれど俺は気にせずハイジャンプし、夜の闇に身を隠した。どう反応すればいいのかわからなかったのだ。
誰かに優しくされるなんて初めてだった。
元々アサシンというのは誰かに優しくされる環境で生きる、なんてことは存在しない概念だ。
シーフも、アサシンも、そして同系列で生きるローグもすべて忌み嫌われることこそあれ、親しく接するような存在は皆無だった。
我々はそれぞれが生き残るためだけに、信頼するものは自分だけであるときっちりと教え込まれている。同業相手にでも警戒は怠ることはない。我々は常日頃からお互いをだまし合うことによりものを掠め取ろうとしたり、時には相手の命を奪う事さえあった。そうでもしないと我々は、明日にでも路上で内蔵を撒き散らして冷たくなっていることもあるかもしれない。
時々そのことが俺は恨めしく感じる。「なぜ、我々はだけがこうなのだ?」アサシンになった人間それぞれにもいろいろな理由があるだろう。しかし我々は誰ひとりとしてまともな恩恵を授かることはない。
たぶん我々はアサシンになると決めた時に、人間が受ける権利のいくつかを放棄する必要があるのだろう。それは、たぶん、無意識に。
「なにやってんだろうな」
俺は私服で昨日と同じ路地に突っ立っている。それは昨日のアコライトと会うためだ。我々は秘密を漏らしてはならない。我々の秘密を知ってしまった限りは、我々はなんとしても彼女を始末しないとならないのだ。
腰のベルトに刺してあるナイフを取り出す。日光に照らし、その輝きを確認する。よく磨かれている。肉程度なら抵抗を感じずに切り裂くことぐらい容易なことだろう。
ひたひたと、少し遠くから足音が聞こえてきた。その音に俺は耳を澄ます。体重の軽い、比較的靴の裏は柔らかい素材だ。距離としてはあと三分程度でここまでくるだろう。
足音を立てずに物陰へと移動する。太陽から死角へと入る。我々は日が当たらない場所ならば、誰にも気づかれないぐらいに気配を消すことができる。それは一メーター以内に人がいたところで、ばれることのないぐらいに完全に気配を消せるのだ。
ふと、別方向からも足音がする。いち、に・・・この足音はどうやら三人組のものらしい。距離から言うとここまで三分程度。体重の軽い足音とちょうど俺のいる辺りで鉢合わせるタイミングだ。
どちらがあのアコライトのものだろうか? 少なくとも三人組の方ではないのは分かった。三人組はある程度がっしりとしていて体格がよく、靴の裏はしっかりとした革でできているようだ。少なくとも、そのイメージとアコライトの少女とのイメージは一致することはない。
近くに捨ててある木箱のわきへと身を潜める。四つの足音が俺のすぐそばぶつかる。男の声がする。耳を立てる。
「ねぇねぇ、こんなところを女の子一人で歩いてるなんて危険だと思わない?」
「そうだぜ? ここいらにはろくなやろーいねーしなー。この先にあんのもぼろっちい孤児院だけだろ? 案外ここらのごろつきってそこの孤児院でてたりしてな」
二人の男の声がする。それとともに下品な笑い声が路地に響く。
「ま、実は俺らがその危険な奴ってやつなんだけどなー」
「やめてください!」
女の子の小さな悲鳴とともに体重の軽い足音が速いテンポで聞こえてくる。
「まちなってー」
三人組の足音がその女の子のものであるらしい足音を追いかけて行く。
想像すればわかる。長い間生きていれば分かることもある。今、彼らはにやにやとした表情をしているだろう。楽しくて仕方がないのだろう。だがそれはやがて変わり、にやついた笑顔から獲物を狙うハンターのような鋭い顔付きになるだろう。人は逃げる獲物が目の前にいるとそれに対して真剣にならざるを得ない。なんでわかるかって? 昔の俺も同じだったからだ。
足音がすっかり聞こえなくなったところで物陰から出てくる。ナイフを再度取り出し、太陽の光に当てる。鋭い金属が鈍い光を放つ。ああ、わかってるよ。おまえと俺の求めるものは大体同じだ。行動を共にしよう。
先程の会話のやり取りを頭の中で反芻する。間違いない、あの悲鳴はアコライトの少女のものだ。
「ほらまちなよ!」
盗賊の格好をした男がアコライトの少女の肩を強く押す。アコライトの少女はつまずき転んで、右足を手で押さえながらうずくまる。どうやら足首をひねったらしい。
「別に悪いことしようって言うんじゃなく遊ぼうぜって言ってるだけだってのに、逃げるなんてひどくね?」
別の男がうずくまっている少女へとにじり寄った。少女は困惑の表情を浮かべたまま、足を引きずるように後ろへと腕だけで下がる。しかしそれも間もなく背に路地の壁を感じ下がれなくなった。
下品な笑顔を作った男が懐からナイフを取り出す。そのナイフの刃の表面はすっかりくすんでいて、よく見ると刃こぼれもいくらかしている。あれでは紙を切ることも難しいだろう。
ナイフを取り出した男が少女へと手を伸ばす。いささか興奮しているのか、顔を若干赤くして鼻息を粗くしていた。
「これはそういう趣旨のプレイかなにかか?」
俺がそう口を開くと、全員がいっせいにこちらを振り向いた。男たちは驚いた顔をし、少女が少し安堵した顔を見せる。
「た、助けてください!」
少女が俺に向かって叫ぶ。男たちは獲物を取られると思ったのか、俺のことを険しい目付きでにらみつけてきた。
「おい、邪魔すんのかよ。それともこいつが目当てなのか? だったら俺たちが先に目をつけたんだ。あとで勝手にやってくれよ。ただ、邪魔したらどうするかぐらいはわかるよな?」
男がナイフをこちらに向けて構えてくる。やれやれ、どうしてそうも恥ずかしく得物を構えられるんだ。俺はため息をついた。
「別に俺は何もする気などないな。やるなら勝手にやってろよ。俺の知ったことじゃあない」
俺の言葉に顔面蒼白にする少女。三人組の男たちはそうかよ、とだけ言って少女に向き直る。俺のことは彼らの認識のなかにはすでに残ってはいないらしい。
「―――」
アコライトの少女が俺のことをじっと見つめてくる。それは困惑しているようで、悲しんでいるようで、だけどなにかを見つけだそうとしているようだった。
けれど俺にはそんな慈悲はない。俺がここで彼女を助けたところで何の意味があるのだ? もし彼女が俺のことを誰かにしゃべったら、俺が彼女を処分しなくともアサシンギルドが彼女を処分するだけだ。結果としては俺のことを評価が下がるかどうか、ということぐらいだ。
その前後に少女がどうなろうか俺の知ったことじゃない。そうだろう? 結局最後は死ぬのだから。
男の一人が少女の肩を掴んだ。彼女はびくりと震える。と、すぐに鋭い目付きで盗賊を睨み返し、その腕にかぶりと噛み付いた。
「いっっっ! ざけんな!」
男がつま先の尖った革のブーツをアコライトの少女の腹部へと叩きいれる。彼女は一瞬で瞳孔が縮まり、地面へと嘔吐した。
「うええっ、うえ」
辺りに嘔吐による独特な匂いが充満する。男のひとりが蹴りをした男に軽口を叩く。おいおい、少し強く蹴り過ぎじゃね?
咳き込みながらひときしり胃の中のものを出してしまうと、少女はすっと顔をあげた。口のはしには嘔吐の跡が残っている。
「きったねーなー。こいつ昨日は何食ったんだろうな」
ナイフをもった男が少女の前にしゃがみこむ。そしてナイフの刃先で吐瀉物の中にある固まりをつついた。
ふと気づくとまたアコライトの少女は俺のことをじっと見つめている。やれやれ、どれだけ他人を信じてるんだ? アコライトの少女の前へと行ってやり、俺はナイフをもった男と肩を並べるように少女の正面へとしゃがみこんだ。少女の目がかすかに揺れる。
「なぁ、助けてほしいか? それとも何もしないでほしいか?」
俺は少女に問いかける。俺の行動によって周りから怒号や笑い声がしたけれど、そんなことは完全に無視した。彼女は俺の言葉に、静かにゆっくりとうなずいた。
助けてほしい、か。
「ふん、こんなことがもう起きるとは思わないことだな。いいか? 幸運っていうのだけはどんなに金を積んでも手にはいらない。俺から恩義を勝ち取るなんていうのはもう二度とないんだ」
その瞬間、正面にいたアコライトの少女の顔が横にぶれる。少女の顔があったところにはひとりの男のこぶしがあった。
「ごちゃごちゃ話してんじゃねーよ。なんなんだよお前」
俺はナイフを取り出し、天にかざす。わかってる、お前もほしいのだろう? 大丈夫、今我々の目的はどうしようもないほど一致してしまった。なら、その目的を果たさない意義はない。
「お前達、光栄に思え。俺が直々にハンティングの相手になってやる。的はお前らなんだがな」
こんこんとドアをノックする。しばらくすると初老のおばあさんがでてきて、俺のことを見て目を丸くした。
俺はおばあさんに道端で彼女が倒れていた、とアコライトの少女を肩に担ぎながら軽い嘘をついた。おばあさんは俺の言葉に大して疑問も抱かず、そうですかと言い俺を室内へと招き入れた。室内に入ると少女の寝室へ連れて行ってもらい、ベッドへと彼女を寝かせる。すると、おばあさんは俺に提案してきた。
「どうぞお茶でも飲んで行ってください」
その誘いを特に断る理由が思いつかなかった俺はお茶をご馳走になることにした。おばあさんがではこちらへきてください、と移動し始める。俺もそれに続いた。
窓からは明るい日差しが差し込んでいる。歩くたびに年季の入っている床板が乾いた音を立てる。ここはなぜか何かしら寂しい場所だと思った。プロンテラの光と闇、路地裏というこの世の末端にある孤児院。
おばあさんの後をついて行くと、孤児院と同じ敷地内にある古ぼけた教会のなかへと案内された。おばあさんはお茶を取ってきますね、といって一度出て行く。
教会のなかを歩き回ってみると、教会はとても古い建物だけれど放っておかれているわけではないようだった。窓枠に指を擦ってみてもほこりや汚れが指に付着するといったことはない。どうやら毎日誰かが掃除をしているようだった。あのおばあさんなのだろうか? それともアコライトの少女なのか。はたまた完全に俺の知らない人物という可能性もある。
教会のなかの一番前の席へと腰を掛ける。ステンドグラスが太陽の光を透過して輝いている。かつてはここで結婚式を挙げたり葬式を行ったりしていたのだろうか? 考えてみても答えが出るはずはない。ただ少なくとも、当分そういったことがここで行われていないことはなんとなくわかった。
「おまたせしました。はい、これどうぞ」
おばあさんが紅茶の注がれたティーカップを差し出してくる。それを受け取る。紅茶は温かく、自然と漂ってくる湯気がとても良い香りをしている。
「ありがとうございます」
おばあさんがにこりとほほ笑む。とても人の良さそうな笑顔だ。
「それで、いきなりですがティルとどんな関係なんですの? 私が言うのもなんですが、あの子は友達のいない子なので」
おばあさんが紅茶で口を湿らせる。どんな関係、か。聞かれることは想像はしていた。あまりにも我々の間の年は離れ過ぎている。そもそもあの子の名前を今初めて知ったぐらいだ。
さて、なんて答えよう?
「別に話したくなければ話さなくても構いませんよ。あなたがティルに害を及ぼすような人ではない、ということはわかっていますから。私としても、あの子に友達のひとりぐらいできてほしいと思っていたのです。ティルは昔から体の弱い子で、外に遊び相手なんていなかったから。生まれて物心ついてからずっとここで暮らしてるから余計にね」
おばあさんが再度紅茶を口に運ぶ。俺も紅茶を一口いただく。爽やかな味が、なんだかとても古ぼけた教会には似合わなかった。
「よかったら――」おばあさんが俺の目をじっとのぞき込む。その目付きはまるで先程追い詰められたティルの目付きのようだった。彼女はその目で俺のことを見つめ続けると話しを進めた。「あの子の友達になっていただけませんか?」
彼女のその申し出にびっくりする。友達? 俺が? この方、生まれてきて人を殺すことしか教えてこられなかったというのに。
けれど彼女はそれすら見越しているらしく、深い色の目を笑顔で細めた。
「あなたになら任せられます。私には分かっているんですよ、あなたが何の仕事をしているかということぐらい。同業者なら誰でも分かります。そういうものでしょう?」
彼女のほほ笑みはそのままで、どうやら嘘はついていないらしい。やれやれ、俺もまだ未熟って事か。
「それにあの子にはあまり時間がないのです。だからどうか、お願いします」
おばあさんが俺の手を握ってくる。その手はとても荒れていたししわも多かったけれど、暖かくて不思議と嫌な感じはしなかった。
俺は静かにうなずいた。すると彼女は嬉しそうに笑った。
――俺は確かに未熟だけれど、それでも分かることぐらいある。彼女がティルに向けている視線は孤児を見るのではない、もっと特別なものだということぐらいは。
紅茶を飲み干したあと俺はティルの寝かしてある部屋に行き、彼女の寝顔を観察する。ティルの寝顔はとても安らかで、幸せそうな寝顔だった。
部屋の中の唯一の窓に近づき、そこから外の様子を眺める。窓からは数本の木とよく手入れがされているような小ぎれいな花壇、それと先程いた教会が見える。数匹の小鳥が木にとまり、何度か鳴く。蝶がぱたぱたと羽根を羽ばたかせ、花壇の周りを飛び回っている。静かで良い場所だ。けれどどこかしら寂しい印象を受けた。
「あ……」
声が聞こえる。振り返るとティルがベッドの上で体を起こし、こちらをじっと見ていた。彼女は俺の顔を確認すると、すぐに表情を綻ばせた。
「やっぱり助けてくれたんですね?」
その笑顔がなんだかまぶしく、俺は目を細めた。やっぱり、ね。
「始めは助ける気なんてなかった。もともと俺の人生ではないからな」
ティルが笑う。
「それはそうですよ。私の人生ですから。私の人生は誰にもあげないですよ」
彼女はどうだと言わんばかりに胸を張った。その光景がなんだか微笑ましく、俺は苦笑した。彼女はちゃんと自分の人生に自信をもっているんだろうと思う。それに対して、果たして俺の人生は胸をはれるようになることがあるのだろうか?
遠くで犬の吠える声が聞こえる。既に日は落ちており、辺りはしっかりと漆黒の闇に包まれている。街は既に眠りにつき、別の顔を見せている。
俺は懐から短剣を取り出し、毒を塗る。ナイフの柄をしっかりと握り、その手触りを確かめる。すっかり慣れた手触りだ。俺の手にすっかりと馴染んでいる。
空を見上げる。満天の星空の中、一際輝く月がちょうど自分の真上にきていた。そろそろ時間だ。防具に破損などがないかしっかりとチェックする。特に問題はないので顔の半分を覆い隠すマスクを着用する。
「仕事の開始だ」
俺は走りだす。足音は立てない。周りの音もしっかりと聞き、近くに生物が迫っているのを確認しながら進む。いつの間にか体にしっかりと馴染んだ技術だ。これがちゃんと訓練できていないアサシンの大半は遅かれ早かれ絶対に死ぬ。基礎中の基礎であり、命綱になる。
目的の家までたどり着く。敷地がとても大きな一軒家の屋敷だ。塀を軽々乗り越え、さっと窓際まで駆け寄ると、自分の息を殺して耳を澄ます。虫の声と風の音、そしてどこかで犬の遠吠えが聞こえる。
屋敷の窓枠へ静かに短剣の刃を走らせる。窓枠は音も立てずに綺麗に切り取られる。俺のナイフにかかればこの程度のことは造作もないことだ。
窓枠ごと消失した窓から屋敷の中へと忍び込む。音を澄ませる。物音は一切しない。まだ気づかれてはいないらしい。しかし油断してはならない。ナイフを仕舞い、カタールを装備する。両腕に均等な重さがかかる。苦にはならない。
侵入した部屋から廊下へとでると再度耳を澄ませた。息遣いがひとつ聞こえる。規則正しいゆっくりとした息遣いだ。これはきっとターゲットのもので、寝ているのだろう。ちゃんと普段の就寝時間を調べてからきているのだ。
音のする部屋へと歩きだす。さっさと終わらせて帰りたかった。
ターゲットの部屋の前までつく。一度だけ深呼吸をする。大丈夫、なんの問題もない。いつも通り慎重に進んでいる。ドアノブへと手を掛け、ゆっくりと扉を開く。中にはベッドとそこに横になっている人間が一人。
いや、二人!!
咄嗟に横へと跳びのいた。理由なんてなく、強いて言うならば己の直感だけで跳んだだけだ。しかしそれは正解だったようで、今まで俺が立っていた場所にタタタンッとナイフが三本突き刺さる。俺は暗闇へと目を凝らす。そこに一人の姿が現れる。
「こんばんは、侵入者さん。君も運が悪いなぁ。なんでよりによって、割り振られた相手がここなんだろうね?」
暗闇から姿を表す。我々とは似て、否なる存在。我々アサシンの上を行く、アサシンクロスがナイフを構える。
冷や汗が額から顎へと垂れる。直感として感じる。死の息遣いが目の前に感じる。心臓が激しく脈打つ。
アサシンクロスにアサシンが勝てる訳がない。心のおくで誰かが叫ぶ。
「くそっ!」
来た道を走って逃げ出す。ちらりと後ろを確認すると、アサシンクロスがナイフを振る姿が見える。ナイフを投擲したのではない。文字どおり空中で振っただけ、だ。
その瞬間、背中を何かに切りつけられたような痛みが走る。激痛が背中から頭へと上り、嫌な汗だけが頭から背中へと流れた。痛みで意識が真っ白になりそうになるが、立ち止まってはいけない。次はもう生きてないぞと、心の中で警鐘が鳴る。
ちまちまと逃げてはいられない。廊下の窓を体当たりでたたき割り、そのまま外へと飛び出す。着地するまでの間に感覚をマヒさせる神経毒を少量体に打ち込む。着地が済むと、すぐさま走りだす。安全圏まで逃げなければならない。我々には我々のルールがある。それは深追いしないこと。逃げれば任務は失敗しようとも、死ぬことだけは回避できる。
「畜生」
なんとか自宅へと引き返すと傷口を包帯で覆い、ベッドへと横になった。まさか同業者、しかも俺より上のランクが控えているとは思わなかった。
今日の手順にはミスはなかったはずだ。どこも間違えてなどいなかった。ただひとつ、計算違いがあっただけだ。たったそれだけで失敗するとは。
ベッドに横になったまま腕を伸ばし、部屋の中を照らしているロウソクの火を消す。そして目を閉じる。すぐに眠気がやってくる。
疲れていた。怪我をすることはあれ、暗殺を完全に失敗することなんて初めての経験だった。すくなくとも今までは殺すことだけはミスしたことなんてなかったはずだ。
ティルが自分の人生に胸を張っていた光景を思い出した。俺は自分の人生に胸を張れることはないだろうと思っていた。アサシンとしても胸を張れることは一生ないかもしれない。
俺は何のために生まれて、なんのために殺人という非生産行為に従事しているのだろうか? この先に見いだせるもの、そんなものはいくら見渡してもありそうもないことだ。
昼間になると、俺は孤児院を尋ねていた。特に意味なんてない。ただなんとなく、ティルに会いたいと思った。俺の人生になかったものを彼女が与えてくれると思ったのだ。
俺が孤児院を尋ねると、ティルは輝くような笑顔で出迎えた。
「あ、こんにちは。今日はこれから買い物に行くんですけど、一緒に行きませんか?」
彼女の誘いを断る理由は微塵もなかった。俺は二つ返事で了承し、二人で街へと出掛けた。
街の露店街へとつくと、ティルはちょこちょこと当たりを歩き回っては「これください」と食料を購入してまわった。どうやら買い物にはなれているようで、その行動には迷いのようなものは微塵も感じられなかった。
「すみません、荷物持ちさせてしまって」
ティルが紙袋を持った俺にすまなさそうに頭を下げる。彼女の両手にも少なくはないものが詰まった紙袋が抱えられていた。
「気にしないでいい。これぐらいしか、俺にはすることがないからな」
買い物に行くのに歩いた道を逆に歩く。しばらく無言のまま、我々の足音だけが路地に響いた。
「あなたはどうしてあのとき私を助けてくれたんですか?」
彼女が突然、俺の顔をじっと見つめてきいてくる。助けた理由か。
「なんだろうな」
助けた理由なんてもう覚えていなかった。あのとき、自分のしたいように動いただけだ。それ以外には思い出せない。ただなんとなくだ。
そして、我々の生きる日常はそのなんとなくの連続と複写で成り立っている。なんとなく、なんてものはそこにあるだけのもので理由とはなりえない。
彼女が倒れたのは、それから少ししてのことだ。
孤児院に戻ると俺は孤児院のおばさんとティルに夕食に誘われた。断る理由は特になく、すぐに了承した。
俺がティルとおばさんが料理をしている間、孤児院の子供たちと遊んでいたらいきなり大きな声が聞こえたのだ。
「ティルが倒れたの! ちょっとこっちへきて!」
俺は顔が青ざめたティルを寝室へ運び、そのあとおばさんが夕食ができたというのでそれを戴いた。
ティルが倒れたことについて夕食中に質問すると、どうやら今日が初めてではないようだった。理由については夕食後、教会の礼拝堂で説明すると言われてその話はそれきりになった。
夕食を終え、おばさんが食器を片付け終わると我々は礼拝堂に集まった。彼女は紅茶を二人分いれ、俺の隣に腰掛けると話し始めた。
「ティルはね、生まれつき体が弱いのです。ただ体が弱いだけなら問題ないのですが、それにもちゃんと理由があるんです。彼女は元々、不治の病を持っているのです」
「不治の病? 治す方法はないんですか?」と俺が聞く。
「治す方法はなくもないらしいんです。ただ、見ての通りここは貧乏な孤児院ですから。それに治す方法はルーンミッドガッツにはないのです。ここは魔法の国ですから。シュバルツバルド共和国へ行けば、あるらしいですが……」
「しかし、シュバルツバルドは……」
現在、北のシュバルツバルド共和国は西のアルナペルツ教国との貿易上のいざこざで警戒体制をしいていた。ルーンミッドガッツ王国からシュバルツバルド共和国へいけなくもないが、そのためには大金としっかりとした身分とそれを証明するものが必要になっている。
「ええ、私達にはお金も、そして地位も身分もありません。お金があれば地位や身分がなくともいけるかもしれませんが、どう逆立ちしてもそんなお金はだせません」
そうだろう。必要な金は我々のような一般人ではどうあがいても手にはいらない金であろう。
「あの子はあとどれくらいもつんですか?」
「ティルはたぶん、そう長くはないと思います。まともに診察できる医者もいないですから、詳しいことは分かりません。ただ一年、二年は持たないと思います」
二年。シュバルツバルド共和国の警戒体制が解かれるかどうか、微妙なラインだ。それに解かれたとしてもそれでは手遅れではないか。
「ティルにはこのことは秘密にしておいてください。あの子には幸せなままでいてほしいのです。辛そうなら、この私が……」
彼女がきゅっと唇を結ぶ。表情は不安そうに見える。けれどその意志は堅いようで、瞳の奥の光りは揺らいではいなかった。彼女の決意は本物なのだ。
彼女の手を握った。しわくちゃの暖かそうな手が、今はとても冷たくなっていた。
なぁ、どうしてこの世にはこんなに不幸なことがあるのだろう? 理不尽な怒りという感情を、俺たちはどうして手にいれてしまったのだろう?
不幸な未来を救うために、もっと大きな不幸で塗りつぶす。それが本当にいいことなのだろうか?
そしてそんな不幸な人達のために、俺がしてやれることとはなんなのだろう? 殺すしか脳のない、俺にできることなんて。
「――あなたは泣かなくていいんです。悲しむこともない。あなたの代わりに、俺がやります。そしてあなたは俺を憎んでくれていい。
あなたはもう汚れる必要なんてないでしょう? 足を洗ったのなら、こんなことで自分の手を汚さないで戴きたい。
こういう仕事は、現役である我々の仕事です。この程度の泥ぐらい、被ってみせます。あなたの手はティルのために、今汚してはいけない」
おばさんの瞳から涙が落ちる。俺は彼女の手を一度だけ強く握ると、すぐに教会をあとにした。
理不尽な不幸っていうものはどこにでも潜んでいる。それは路地裏にも、大通りにも、果ては机の裏にもいる。
それらにたまたま、たったの1%の可能性しかなかったにしても、彼らに目をつけられた瞬間にそれは大なり小なりの不利益を被ることになる。
これはあくまで確率の問題だ。長い人生、こういうこともあるかもしれない。知り合いを手に掛ける決意、多くはないとはいえ、絶対にないとは言い切れない。
けど、どうしてよりによって彼女なのだろうか? 彼女の手が冷たくなるところを想像する。が、すぐに打ち切った。一言で言うと悲しかった。
彼女を殺す。大きな不幸をさらに大きな不幸で塗りつぶすことにより、彼女一人だけを救ってみせる。
悲しくとも、やるしかない。たぶんこれはすでに手が汚れきっていて、一番どうでもいい日陰者の、俺がやるべきことなのだろう。
小さなスポットライトに照らされて、ほんの少しの人から拍手をもらうためだけの、俺にとってだけの小さな小さな誇りにしかすぎないことだけれど、たぶん我々のこの選択は間違ってはいないだろう。
我々には他に選択肢が残されてなんていないのだ。
ティルの部屋へ行くと、彼女は既に起きていた。部屋のランプに灯はともっておらず、窓から差し込む月明かりにてらされたまま、ベッドに腰掛けている。
「あはは、わかってるんですよ、私」
ティルは口を開く。すぐそばに立っている俺に言っているのか、つぶやいているだけなのか分からない口調。
彼女は続ける。
「私のお母さんが殺し屋だったこと、あなたも殺し屋であること、私の病気のこと、そしてそれが現状では治療が絶望的なこと。全部知ってるんです」
窓の外で風が吹き、がたがたと窓を揺らす。部屋の中ではどちらも動くことはない。なんだかそれは昔の風景画を思わせた。
「ずっと前から全部知ってました。ちゃんとお母さんが優しいこと、あなたが優しいこと、殺し屋でも人間であるということもわかっていました。
ねぇ、私はもっと生きていたかったですよ。お母さんやあなたと、もっと一緒にいたかった。私の人生、たった十数年で幕を閉じようとしてるんです。ひどいと思いませんか?
私はアコライトです。神に仕える身ですから、神を否定なんてしません。けど、これはあまりにも理不尽じゃないですか! 今はまだ、元気だというのに!」
彼女が泣き始める。彼女の涙が顎から落ちて、月明かりにくらりと輝いた。
彼女は熱心に神を信じていたのだろう。あの教会の小ぎれいさを見れば、よくわかる。もしかすると彼女は自分の病気をずっと前から知っていて、それが治るように毎日祈りを捧げていたのかもしれない。
けれど、この世に神なんていない。神がいたならば、今まで俺が不幸にしてきた人はもっと減っている。
「大丈夫、殺してやる」
ティルが顔をあげてこちらを見る。暗くて見えないけれど、たぶん彼女の瞳は真っ赤になっていることだろう。
「もしすべて手遅れになったら、どうしようもなくなったら、俺が全部殺してやる。悲しませる人も、悲しむ人も、全部消してやる。大丈夫、心配なんてしなくていい」
俺にできることなんて、これだけだ。俺ができることは消すことだけだ。
「だから、手遅れになるまで精一杯手を尽くしてやるから、お前も諦めるな。大丈夫だ。お前は今、俺っていう味方を手にいれた。安心していい。だから、お前も頑張るんだ。いいな? 絶対、治してやるから」
俺の言葉に彼女はくすりと笑う。
「さっきの台詞と矛盾してますよ」
確かに。けど、そのぐらいはわかっている。
「これ、どうかもっていてください」
ティルが首から十字架のペンダントを外し、渡してくる。
「きっとこれが、あなたを守ってくれますよ」
俺はヴァルキリーレルムと呼ばれる場所にきていた。同じ場所に続々と人が集まってきている。
今日はこれからここで攻城戦というのが行われる。週に一度の一定時間、ここでは城の取り合いが行われる。ここで城を取ると一週間の名誉とたくさんの資金、つまり一週間限りで言えば名誉と金を手にいれることができる。つまり、ここで勝てばティルを救う突破口が開ける。
ここは普段とは違う。大勢の人間たちとここでは争うことになる。我々アサシンは隠密行動と暗殺については得意だが、例えば騎士などと正々堂々と向かい合ったところで我々の方がどうしても劣ってしまう。
しかし、なりふりなんて構ってられはしない。ここで勝たなければ、希望も何もなくなる。行くしかない。
攻城戦が始まる。周りの人と一緒に、俺も城の中へと突入する。負ける訳にはいかない。
騎士のボーリングバッシュでブラックスミスが飛んでくる。避けきれず、俺と衝突する。ブラックスミスは比較的頑丈だったのか、すぐに立ち上がると走りだした。
ふと、額に生暖かいものを感じる。手でそれに触れてみると、どうやら血液のようだった。今の衝撃で頭部に傷でも負ったようで出血していた。
俺は目をつむる。自分へと問いかける。果たして俺は間違っているのだろうか? そもそもあのアコライトはもともと処分するつもりだったのだろう? じゃあなぜ、今こうやって彼女のために体を張っているんだ? じゃあなぜ……。
立ち上がった。どうでもよかった。目隠しをつけた。いつだって理由なんてなかった。血液が視界を邪魔するのならいっそのこと視界なんていらない。ほしいものもなかった。走りだした。望むものなんてなかった。盾を装着した。守りたいなんて思ったことなかった。今までは。
理由なんてどうでもいいだろう? いつも俺は自分がしたいことばかりやってきたんだ。今更虫のいい理由を見つけたところでなにがかわる?
俺は騎士みたいな忠誠もない。ブラックスミスのような技術や、アルケミストのような探求心もない。俺にあるものなんて、この両腕しかない。
名誉なんてものも持ち合わせていない。泣こうが喚こうが、見逃すような情けも無い。アサシンとしてはそれは良いことだろう。
しかし、笑われようが蔑まれようが、譲れないものがひとつぐらいあってもいいだろう?
孤児院のおばさんの顔を思い出す。あの人の暖かさを守りたい。ティルの笑顔を思い出す。彼女の笑顔をもっと見たい。確かにそう思った。
人の群れをわき目も振らずに突破する。そんなものにかまっている暇は無い。
もしも神がいるなら、俺の一生を分の願いをティルの十字架に祈ろう。もし人ひとり守れない神ならば、そんなもの殺してやる。
十字架のペンダントを結んだカタールを強く握る。それはとても強く。もう二度と離さないように。