Ablaze Cross - As a sin2 -

 十字架のペンダントが砕けてしまった時、我々の多大なる希望とたった一つの夢は崩れ去った。それはただ足早に、風が吹いただけで霧散する煙のように、さっと消失してしまった。

 始めにそのことを視認したときは自我を保つことなんてできやしなかった。我々はただ単純に負けたのだ、という現実の重みに耐えることなんてできず、思わず膝を折ってしまった。

 目の前に白い布を顔にかぶせた女が横たわっている。そっと彼女に近づき、布を軽く持ち上げてその顔を確認する。見知った顔であるということと、その表情は波がない水面のように静かだということだけはわかった。

 彼女に布をかけ直すと、俺は懐から小さな十字架を取り出した。もう既に戦いによって砕け散ってしまったかけらだけれど、じっと見ているとそれは今にも元の十字架に戻りそうにみえた。戻ってくれ、と思った。けれどそれはただの俺の希望であって、十字架は変わらずにばらばらのままそこに存在している。

「どうもありがとうございました――」

 振り向くと孤児院を運営しているおばあさんが目を伏せながら佇んでいる。

「あなたがあの子のために頑張ってくれたのを、私はうれしく思います。たぶん、あの子も喜んでいたと思いますよ。

 あの子は精一杯生きたし、あなたも一生懸命頑張ってくれました。それで十分だったんだと思います。あの子はあなたに好意を寄せていました。好きな人が自分の為に頑張ってくれた、それはとても幸せなことだと思います」

「けど、結果は残念なことになってしまった。結局何もできなかったのと同じだ。個人の感情で動いたことはアサシンとして失格である上に、ただの負け犬じゃ何の意味もない。

 初めて強く救いたいと思った。が、それもままならない。救うどころか、永遠に失うはめになってしまった」

 おばあさんが首を振る。そして俺の言葉を否定する。

「十分あの子を救ってくれましたよ。あなたの行為はそれに値するものだと私は考えます。……それより、あなたはこれから先も、仕事を続けて行くことができますか?」

 おばあさんがじっと、俺の目を見つめる。彼女は元々俺と同業だった人で、ずっと汚い仕事ばかりをしてきたはずだ。そしてたぶん、彼女はいまでも現役でいるのだろう。我々は暗殺者になったら二度と、日のあたるような生活はすることができない。我々は日陰に生き、日陰で消える。今まで行った行為を表ざたにしようものなら、ギルドの手によって殺されることになるだけだ。

「私はもう、仕事は行っていませんよ」

 彼女はそう言うと、すぐそばにある壁に寄りかかった。そしてそのまま続ける。

「私は抜けたんです。あの世界は本来抜けることを許してはいませんが、自主的に抜けることにしたんです。身を隠し、名前を変え、世間から孤立するようにひっそりと教会付の孤児院を立てました。まさか、元暗殺者が孤児院と教会を開いてるだなんて思わないでしょう?

 あの世界を抜けてから30年、いろいろなことがありました。ただ、この30年のおかげで世界は色鮮やかで、様々な優しさが満ち溢れているんだと、私は理解することができました。暗い、ひっそりとしている陰った場所で暮らしているときはそんなこと考えたこともありませんでした。みんながみんな、どこかで損得を推し量っている。自分の利益だけを追求し、そのためには他人の不幸もいとわない。この世はそういった世界なのだろうと、思っていました。しかし、出てみると違ったのです。それぞれ辛い体験をした孤児たちは私を慕ってくれ、市場の商人の方たちの親切に触れ、新しい人と出会い、会話を交わし、そしてそこにぬくもりがある。たったそんなことすら、私は歳を取るまで知らなかったのです。

 あなたも、もう知ってしまったでしょう? それでも、続けられますか?」

 真摯な目でおばあさんが見つめてくる。目が会うと、俺はすぐにそらしてしまった。そのまっすぐな目を見続けることはできなかった。彼女の目は長い間我々の世界から遠ざかることで綺麗に浄化されていたものの、俺の目は今だ暗く濁っている。それを真正面から見透かされてしまうのが恥ずかしかった。

「……ひとつだけ、聞かせてくれ。あなたが暗い世界を抜けた理由は?」

 俺の質問に彼女は微笑んだ。たぶん、すでに全て見透かされているのだろう。そして、俺にもわかりきっている言葉を彼女は答えた。

「あなたと同じですよ」

「そうか」

 霊安室を退出しようと扉に手をかけたところで、おばあさんが独り言のように呟く。

「孤児院はもう閉めることになりました。ティルが、最後の孤児でしたから。あの孤児院へ行っても、もう誰もいません」

 そう、たぶん全て終わってしまったことなのだろう。霊安室から退出してドアを閉めると、中から小さく嗚咽が聞こえてきた。

 これからあの二人だけの時間が始まる。すでに終わってしまったものと、まだ若干の猶予のあるもの、それぞれが特別な関係だったからこそ持てる大切な時間。夜はまだこれからで、それはとても長い。きっと我々のような傍観者じゃなく、もっと近しい人同士だからこその濃密な別れがそこにあるのだろう。

 まだ月は昇ったばかりだ。

「そろそろ新しい仕事を請けないと、まずいことになる」

 バーでグラスを傾けていると、隣に座った髭面の男が独り言のように言った。彼はアサシンギルドの人間であり、常に変装をしている。何度も出会い、声を覚えてしまったが、会うたびに服装や顔つきは違うように感じる。たぶん、人間の記憶に残る顔の特徴とはどういったものなのかを熟知しているのだろう。

「わかってる」

「わかってる、といってもうずっと経つ。知っているだろう? 我々は裏切りを酷く嫌う。日陰者の集いとはいえ、最低の秩序は存在する。それぞれが裏切らないように、それぞれが監視を行っている。仕事を拒み続けたなら、脱退を考えていると取られる可能性もある。そう取られてしまったら最後、そいつは我々によって消されることがある。何度かそういった話をきいたことがあるだろう?」

 小さく頷く。十字架のかけらをひとつ取り出すと、グラスの中へと落とした。それは酒のなかを静かに沈んでいき、底にたどり着くと停止した。そこより奥は、なにもない。

 詮索は無用だ、無駄な詮索は早死にを呼ぶ。昔、アサシンギルドに所属するときにそう言われたことがある。けれどどうしても気になったことがあった。

「お前はなんで人を殺してるんだ?」

 俺の質問に、髭面の男は眉をひそめた。当然といえば当然の行動。我々にとって、それが普通だからだ。

「我々はそれで飯を食っている。誰だって、無意味なことで金を得る、ということはない。我々はそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくだろう。なにも、暗殺は誰の役にも立っていないというわけではない。それを望んだ奴がいて、我々が金と引き換えにそれをおこなっているだけだ。人間ひとりが20歳まで生きるのに必要な金があれば、我々はそれで200人殺すことができる。我々はただ『頼まれごと』を遂行している代理人に過ぎない。暗殺が仕事じゃなく趣味になったらそれはただの狂人だ。しかし我々は違う。仕事として行っている。自分たちが生きていくのに必要な仕事として、だ。暗殺が仕事としてあるだけで、そこらのブラックスミスやアルケミストと何が違う? 何もかわらないだろう」

 黙って酒を一口飲む。味の感じられない液体が喉を伝って胃に落ちる。

「お前、抜けるつもりか?」

 髭面が席を立つ。こいつと話すのもこれが最後かもしれない。

「わからない」

「そうか」

 髭面が遠ざかっていく気配がする。我々は足音も立てないし、基本的に息遣いなどの気配も普段から消すように心がけている。どこにいても、痕跡は残すようなことはしない。しかし、彼はわざとこちらに気配が感じられるようにしていた。

 それはもう二度と会わない、ということを示すサインだ。二度と会わないなら、同じ気配を感じることもないだろう?

 暗殺に必要な毒と闇色の服、そして多くのナイフとカタールを布に包み、それらは街の西を流れる川に沈めた。もう二度と手にすることがないことを祈るしかない。

『それでも、続けられますか?』

 おばあさんの言葉が頭をよぎる。結局、あなたと似たような道を歩むことになってしまった。日陰者が日陰から日の当たるところに出てそこで身を隠す。それは言葉では簡単なようで、とても難しいことなのだろう。

 静かな川面を眺めながら、これからどうしようかと考える。残念ながら、俺には孤児院をやろうと思えないし、他にも特にやりたいことがあるわけでもない。

 特に何も思うことのないまま、俺は孤児院を訪れた。なにかが生きている気配はまったくない。孤児院の中を見回ってみたものの、すでに誰もいないようだった。テーブルの上には薄く埃がかぶさり、窓枠にはくもの巣が張っている。

 仕方なしに孤児院の隣にある教会の中へ入った。特に行くところもなければ、思い当たるところもなかった。会話をするような知人も思い当たらず、用もなしにここにくるしかなかった。考えてみると、俺はここしか知らないのだ。

 聖堂の中央の道をまっすぐに進み、十字架の前まで来る。周囲の空気はひっそりとしていて、ある意味神聖であるといえるかもしれない。十字架は完全に呼吸を止め、ただただ佇んでいるばかりだ。その裏に回ってみるとそこに一枚の絵があるのを見つけた。40ぐらいの男の絵。端には日付が押されてあり、今から30年前ぐらいに描かれた絵であるということがわかる。細かい赤い点が絵の全体には散らばっており、目を凝らすとそれが血液であるということにはすぐに気がついた。

 ああ、きっと、そういうことなんだろう。

 今の俺にはわかる。どうして彼女が暗殺から足を洗ったか。痛いようにわかる。境遇は違うとはいえ、我々はどちらも無力さを味わい、大切な人を失ったもの同士なのだろう。

 俺は絵と向かい合うように壁に寄りかかり、座り込んだ。そのまま自分の手のひらを目の前に持ってくる。何故かその手は赤銅色をしているように感じた。

「なぁ、絵のお前。お前は殺されるとき、何を考えた? 苦しかったか? 未来がない、という悲しさに打ちひしがれたか?

 けど、お前を殺したやつのことはできれば許してやってくれ。その人は今でもそのことを悔やんでいて、苦しんでいて、そしてお前のことを慕ってるんだろうと思うよ。俺の目が節穴じゃなければ、それを保障してやる。なぁ、だから恨んでやるなよ。我々はそれぞれ、どうしようもなかったんだ。残念ながら子の世界にはそういうことがあるってことぐらい、そんだけ生きたなら知っているだろ?

 たぶんもう二度と会うこともないだろうから、聞いておいてやる。お前の名前はなんていうんだ? 一生覚えておいてやるよ。だから、俺の名前も一生覚えておけよ。絶対だ。俺の名は――」

 水の中で漂っている。我々には実体はなく、ただただ漂っているだけの思念体となっている。個人個人の世界は存在せずに、たまに他人と混ざり合い、そして分離していく。まるで泥水のようだ。初めは混ざっていても次第に泥は沈殿し、いずれ分離する。そしてそのどちらも、綺麗というわけではない。

 彼女が漂ってくるのを感じる。それは、年老いた彼女だ。彼女の意識は俺と混ざり合い、そして幻想を見せる。いや、それはもしかすると古い記憶なのかもしれないが、それを確かめるすべは残念ながら俺は持っていない。

 女が草原を走っている。目指す先は、草原の中に一本だけ立った木のようだ。その木が作っている影のなかで、一人の男が本を読んでいる。何を読んでいるのかはわからないが、少なくとも男は熱心に読書を続けている。

 女がそこへたどり着いて、初めて男は本から顔を上げた。女に対し、にこやかに微笑む男。女はどういう反応をしようか困惑しながらも、はにかんだ笑顔を男へと向けた。そして男の隣に腰掛け、自分のつま先を見つめながら言った。

「今日もお話を聞かせてください」

 男は頷くと、色々な話をはじめた。イズルードの海鮮料理の感想や、アインブロクの環境汚染について。他にもアルナペルツの狂信者の危険性や魔王モロクと剣士タナトスの物語。女は男の話にじっと聞き入り、目を輝かした。女にとって、それは全て見たことも聞いたこともない話だった。それは笑ってしまうような面白い話のときもあるし、涙ぐんでしまうような悲しい話のときもあった。それでも、どんな話でも女は耳を傾け続けた。

 しかし、それも長くは続かない。

 気づくと我々は建物の中へと移動していた。その中で女はナイフを手に持ち、男の胸を突き刺していた。男は刺されながらも、微笑んだままだった。彼女がナイフを抜くと、いくらかの血液が飛び散って近くにおいてあった絵に降りかかった。彼女は無表情のまま、涙を流している。そしてそのまま動かない彼の唇に自身のそれを押し当てた。

 そして世界はまた、水中へと戻る。

 年老いた彼女の意識が分離し、遠ざかっている。すでに彼女に息吹は感じない。年老いた彼女はすでに、この世にはいない。先ほど見つけたばかりだ。彼女は教会の十字架にロープを掛け、自身を吊って、そこでピリオドを打ったのだ。

 水面を見上げる。遠くに月が見えた。ためしにそちらへと泳いでいこうとしたけれど、残念ながらそれはできないことだった。今はただの思念体であり、我々にできることは夢想することと漂うことばかりだからだ。水面に出るためには自身が実体化するのを待つしかない。

 ふと、また別の意識が混ざり始めたことを感じる。今度は若い彼女だ。彼女の思念は俺と混ざり合い、意識を覆い隠す。世界が一度真っ暗になり、すぐに明るくなると、見覚えのある孤児院と教会、あとは多くのロープに垂れ下がった風に揺れる布が広がっていた。

 そこには数年後のティルと沢山の子どもがいる。たぶん、全員孤児なのだろう。孤児たちはティルを慕っていて、一緒に洗濯物を干している。空を見上げると雲ひとつない蒼が遠くまで広がり、洗濯物を干すには良い日だということを告げているようだ。

 一人の男の子が彼女のスカートを引っ張る。ティルはそれを優しく振り払うと、男の子を軽く諭した。いい、女性のスカートはひっぱったり、めくったりするものじゃないのよ?

 ティルは籠から洗濯した服を取り出すと、しわを伸ばして子どもたちに手渡して行く。子どもたちはそれを受け取ると、それぞれで丁寧に洗濯物を干していった。ぶら下がった洗濯物は穏やかな風で揺らめき、たまにティルの頬を撫でた。

「ただいま」

 男が敷地の外から帰ってくる。そしてそのまま洗濯物が干してある庭へと向かった。

 子どもたちやティルがそれに気づき、口々におかえりと返事をした。

「今日のお仕事どうでしたか?」

 ティルがほほ笑みながら男に聞く。男は頷き、やれやれと肩を竦めて答えた。

「参るね。天気が悪くて飛行船が飛ばなくてね。お陰で予定の調整とクレームの嵐だったよ」

「こんなに天気がいいのに?」

 ティルが空を見上げる。男も空を見上げて苦笑する。

「プロンテラはね。アインブロクでスモッグが大量に発生して、シュバルツバルド共和国が安全のためにって今日は飛行船を飛ばさないようにしたんだ。明日は飛んでくれると助かるんだがね。物資が届かないと、我々は仕事のしようがない」

「そうですね、明日も晴れるといいですね」

 どこかずれたことを言っているティルに頷く男。そして彼は腕まくりをすると、子どもたちに言った。

「よっし、さっさと洗濯物干して、遊びにいくぞ! こんないい日を湿ったもの干しただけに使うんじゃもったいない!」

 子どもたちの歓声があがる。男は子どものひとりから湿ったシーツを奪うと「いいか、こうやるんだ」と言ってしわを伸ばして干してみせた。

 そして世界は暗転する。混ざりあっていた意識も分離し、拡散している。あれはたぶん、彼女の夢だったのだろう。永遠に実現することのない夢。

 すっと、白装束を身に纏った幼い少女が現れた。それは目をもたない我々にとって、はっきりとした輪郭をもっていた。

 少女は色の違う左右の目を揺らし、我々の様子を見ているようだった。その両目はまるで、すべての人間が今までやってきたことなんて見通しているように見える。

 あんた、誰だ? 声帯のない声で少女に問いかける。少女は人形のような表情を崩さずに口を小さく動かした。

「求めるものはここにある。私の元へおいで。私は西方で待っている。私は世界のすべてを知らないけれど、世界のすべてを知っている」

 彼女は音のない声でしっかりとそう告げると、我々に背を向けてこの意識の水から離れていった。我々は咄嗟に少女に手を伸ばそうとしたけれど、残念ながら手なんて物理的なものは持ち合わせてはいなかった。

 目が覚めると目の前には男の絵がある。その絵はさっき見たときとは違い、なぜか寂しそうな表情をしているように見えた。何故かその絵が気に入らなかった俺は、それの端を掴むと一気に破った。するとその絵に隠されていたように、裏側に大きな木箱があった。

「木箱?」

 古ぼけた木箱を手にとってみる。上面には埃がうっすらと積もっており、長年ここに放置されていたことがわかる。

 これを隠したのはたぶん、あのおばあさんだろう。

 木箱の箱をゆっくりと開け、中身を確認する。中身は両手に持つ二本の刃物。ナイフとは違う独特の形状をした、人間を殺すためだけに特化したカタール。武器の名前は――

「裏切り者、か」

 あのおばあさんは一体、どういうことを思ってこれをあの絵の裏側に隠したのだろう。その想いは、どのくらい重かったのだろう。俺は一度深呼吸をすると、その裏切り者を握ってみた。やけに両手にしっくりとくる。

 がしゃん、と教会のガラスが割れる。俺はその音に驚き、端へと飛びのいた。なんとなくこういうことは想定していたのだ。ここは誰もいなく、目撃される恐れもない。人どおりもないから、誰かに音を聞かれることもない。襲撃するにはうってつけの場所だろう?

「裏切り者がここに潜んでるって聞いて、わざわざやってきたんだぜ? 感謝しろよおおおおお! 俺様が雑魚の一般アサシンのためだけに出払うなんて、たぶんあと10年はないことだぜええええ!」

 独特のイントネーションで男が叫ぶ。懐かしい声だと思った。そいつは俺の位置を知っておけ、といわんばかりに足音を立てて歩いてくる。

「お前が狩り出されたのは、単純に裏切ったらお前もこうなるぞっていうのをわからせるためだろ」

 まだ姿を見せない男に向かってそう言い、立ち上がる。男が口笛を吹き、月明かりの前に姿を現した。

「懐かしいな。名前は知らないけどな」

「お互いにな」

 顔を見なくとも声で分かる。昔、基本的につるんで仕事をしない俺が、任務上珍しく人と組まなければならなかった。

 そのときに組んだアサシン。ただ俺はそいつのことをKと呼んでいた。俺はKにはCと呼ばれていた。とても古い名前だ。

「なぁーC、なーんでうらぎっかなあー? 仕事に不満、あったか? 給料も別に落ちこんではないし、忙しさも前と変わりないじゃん。なーのになんで?」

「別に仕事には原因なんてなかっただろう。俺がギルドから抜ける理由はただの、完全なる、純然とした、個人的理由ってやつだよ。俺の自分勝手だ」

「自分勝手で、命を棒にふるのかぁー?」

 俺は小さく頷く。Kは大口を開けて笑い声をあげる。

「ははっ、ははははっ! C、やーっぱお前、最高だよ。自分の心の通り行動する、それに犠牲は厭わない。モーレツに最高だなぁ。この国のお偉いさん方にもちょっとぐらいそういう気質を分けてやりたいぐらいだ」

「何もいいことなんてない」

「いんや、ひっじょーにあるねぇ! へへ、俺は嬉しくてしょーがないんだよなぁCぃぃぃぃ! 聞こえるか? 俺の歓喜の声が! ここに上質な紙とペンがあったら、間違いなく俺はそこにこの歓喜を記すぜ! やっと、やぁーっと巡ってきたんだからなぁ。こんなチャンス二度とねえーって」

 一歩だけ後ろに下がる。それを目にしたKも同じ距離を詰める。

「おいおーい、まだパーティーは始まってねーんだよ! っと。これから、パーティーのメイン、ダンスタイムだろう? もちろん、俺の相方はお前。ずっとお前のことを待ち望んでいたんだよぉ。これで、やっと、殺せるんだっ!」

 Kから何か黒いもやのようなものが噴出している。それはまるで意志があるようにKの体に纏わり付いている。いや、たぶん意志があるのだろう。悪意という、ある意味純粋な意志が。

「昔からお前はおしゃべりだな」

「おお、俺のマイクパフォーマンスはお気に召したかな? んじゃ始めようぜ、最初で最後の乳繰り合い、だっ!」

 Kの体が少し沈み込み、俺はバックステップした。先程まで俺がいたところに銀色の一線が通る。それは俺の勘によりぎりぎり避けることができた。

「おいおい、やりあおうぜ。舞踏会でダンスするのはペアってきまってんだろうが!」

 Kは再度切りかかってくる。今度はそれを落ち着いて受け止める。ぎちぎちと悲鳴を上げる二本の刃物。俺はすぐさまそれを押し返し、もう片方の刃をKへ叩きつける。しかしKはそれを左へサイドステップすることで回避した。

「そうそう。それでこそ意味があんだろ。俺がいちいちここまで足を運んだ意味がよ」

 Kが鋭い突きを繰り出す。右手につけたカタールでそれをはたき落とす。そのまま前に一歩踏み出し、こちらも突きを行う。だが、それは空を切った。

「なにそれ、手加減してんの?」

 Kは俺の背後へと一気に回る。振り向くと同時にになぎ倒すように腕を振るった。しかしそれも当たらない。Kはそれを察知したようでしゃがみこんでいるぐらいに腰を落としている。Kと俺の目が合う。

「ばーか」

 Kのナイフが突き出される。振り向く際の回転運動が強く、すぐさまそれに反応することができない。俺の視線にやけにスローモーションでナイフが動く。

 ああ、刺される。

「へへ」

 銀色の刃が腹に触れる。ずぐり、とそれが俺の腹に埋まって行くのがわかる。強烈に感じる異物感。

「っ!」

「もーらいっ」

 そのまま外へと腹が裂かれる。目の前に散る赤い液体。視界が若干暗くなる。本能のまま後ろにステップして距離をとる。裂かれた場所から生暖かい液体が流れているのが感覚でわかる。体温が流れ出しているのも、わかる。

「Cさんよぉ、終わりかなぁ?」

 かはは、とKが笑う。それに対して俺も笑いかけてみせる。

 終わり、終わりか。そんなことにするわけない。そんなことにしたいわけじゃない。

 一瞬、目の前に左右の目の違う少女の姿がフラッシュバックする。その少女は不器用な笑顔をこちらへと向け、すぐに霧散した。その笑顔はなぜか俺をとても安心させた。

 たぶん、俺はここで死ぬ訳にはいかないんだな。

「まだ、終わりじゃない」

「うっせ、終わってろ」

 思いきり横っ跳びをする。窓を突き破り、外へと転がり出た。割れたガラスの破片がいくつも腕に刺さったけれど、気にはしない。

「逃げるなよぉ! まだ前菜じゃねーか!」

 Kが俺の割った窓枠に足をかける。俺はそれを確認すると、すぐさま走り出す。腹部の傷以外に色々なところが痛むが気にしてはいられない。すぐ後ろから軽い着地音と、同じように走り出す足音が聞こえる。全力で走ることでその足音に距離をとろうと思った。しかし、腹部の傷のせいかすぐに息が上がり始める。ヒュン、という風を切る音と同時に顔のすぐ横を何かが高速で通り過ぎた。なんだ? と思っているうちにもう一度風切り音がし、今度は俺の少し前の地面で何かが跳ねる。小ぶりなナイフのようだ。

「鬼ごっこなーんて、俺は好きじゃーないんだなー。すまーとじゃ、ないじゃーん?」

 西の門から街を脱出する。門を越えると月明かりに照らされるだけのただっ広い草原へと入った。そこを速度を落とさずに走り抜けようとする。後ろからは足音と、何本かのナイフが迫ってきている。

「しつこいな……」

 息が完全に上がり始め、太ももになんともいえない気だるさを感じる。周囲の風景の流れる速度が徐々に落ち始めた。そろそろ体力が限界に近づいているようだった。

「おーい、姫さんよ! 速度落ちてきたな! このままじゃ兎狩りで終わっちまうよ?」

 背後から投げられたナイフの一本が左肩を掠める。痛みは舌打ちをして我慢することにした。腹部の痛みに比べたら、こんなもの気にするほどでもない。

 正面に川が見え、小さな橋が見えた。正直、このまま走り続けても終わりがあるとは思えなかった。再度小さく舌打ちをする。くそ、俺の考えなしめ。街を出たはいいものの、怪我をした状態で俺があいつから逃げ切れるわけなどないだろう。

 このまま死ぬんだろうか? 背後の足音とは別の、もっと異質な足音が聞こえるような気がする。それは絶対的な死の気配。捕まってしまったら、そこはもう覆すことができないという絶対的な死の気配。

 橋の上に差し掛かったところで両足がもつれて転ぶ。頬に触れる石の床の冷たさが心地良い。背後から聞こえていた走る足音は速度を徐々に緩め、歩く程度の速度になった。顔は見ていないが、Kの歓喜の笑顔が脳裏に浮かぶ。

「鬼ごっこは終わりだな。体力も終わり、お前の人生も、終わり。いやぁ、いいじゃん。すべてを出し切って、抗って、終わり。綺麗じゃん? そのままさよならとか、美談じゃね?」

 体を起こす。立ち上がると膝が笑っており、これ以上走るのは無理だと悲鳴を上げている。橋の欄干に寄りかかり、ため息をつく。一つだけ、逃げる方法を思いついたのだ。

「ああ、そうだな。美談だよ、ここで死ねればな。お前を殺せる気もしないしな」

 相手が襲ってくるのに身構える。カタールを手からはずし、腰へとくくりつけた。

「はは、そうだ。そのまま、死ね」

 Kがゆっくりと近づいてきて、すぐ前までくるとナイフを突き出す。それに対し、俺は一歩踏み込み、Kのナイフの柄を掴んだ。そしてその至近距離のまま、先ほど転んだときに手に握りこんでおいた砂を相手の目へ思い切り投げつけた。そのまま左手の中指と人差し指だけをまっすぐと伸ばし、相手の眼球へと突っ込む。指先にミニトマトと潰すような感覚。それと共に、Kの悲痛な叫びが聞こえた。

「がああああああ! このクソがあああ!」

 Kがナイフを振り回した。それは避けるだけの体力もなかった俺の胸を裂く。多量の失血からか俺の視界が暗くなっていき、意識も遠ざかっていく。俺は水に落ちる感覚を最後に意識を失った。

 なんて様だ。所詮、こんな人生が俺にはお似合いだ、ということなのだろう。

 目を開ける。風景は何も映らない。ただなにか流されている、ということだけはわかる。息苦しく、手足も動かない。

 思えば何にもない人生だったような気もする。生まれてから俺は何をしていたっけ……? 覚えている一番古い記憶は露店から果物を盗んだことだ。そのときの我々はそうでもしないと生きていけなかった。そのまま盗賊となり、ついには人を殺し、アサシンギルド所属へと成り果てた。そして更に人を殺し、そして今度は俺が殺される側になろうとしている。誰一人として救うこともできず、ただただここでのたれ死ぬだけ。こんな人生に一体何の意味がある? こんな人生に、一体誰がした? 我々のような孤児は一体どうやって、他人の愛情の恩恵にあやかればいいのだ。孤児院にすら拾われなかった孤児は、どうやって生きていけばいいのだ?

 ああ、そうか。そもそもろくなことをしてこなかったから、こんな末路を辿ったんだな。そう考えてみるとなるほど滑稽、これは順当な終わり方なのだろう。所詮我々は日陰者で、日の当たるところに出ようとしたから太陽に焼かれたということなのだろう。それなら自業自得と納得できる部分もある。少なくとも、アサシンギルドを抜けて殺される末路、というのは自分で決めた選択だ。

 ……。

 ……。

 だからって、死にたいわけがない。なんだってこんな、どうして無力なんだ。求めたものが、生きるために仕方なくじゃなくただ単純に求めた平穏が、それすら手にはいることもないとは。悔しい。とても悔しい。俺の人生に意味を持たせようとしたんだ。俺が殺されても、死ななくていい奴を救えたなら立派に胸を張れたはずなんだ。例え死神がやってきても堂々と両手を差し出せたんだ。

 なのに何故、なんだってそれすら叶わない……!

 ふと、視界に丸い光が浮かぶ。その光はとてもぼやけていて、今にも消えそうに儚く輝いている。俺はそれに手を伸ばした。

 生まれ変わったら、もっと強く。大切なものを守れるようにしたい。

 十字架の砕ける音が、ふと、頭によぎった。

「大丈夫?」

 気づくと俺は横になっていて、いつの間にか正面にある女の子の頬を撫でていた。その女の子はじっと俺のことを見つめ、不安げに瞳を揺らす。

「大丈夫?」

 さっきと同じ質問を繰り返す女の子。少し眺めの髪が俺の頬まで垂れてきてくすぐったい。

 俺は体を起こし、頭を振った。やけに頭の中がクリアになっている。クリアになりすぎているせいか、考えがまとまらない。

「……どうも、悪い夢を見ていたみたいだ」

「悪い夢?」

「ああ、悪い夢。けど、もう覚めた。大丈夫」

 立ち上がる。女の子も俺に合わせて立ち上がった。身長が俺の肩ぐらいしかない。まだ10代なのだろうか、顔立ちも幼い。

「悪いけど、ここはどこ?」

「ゲフェンの東。なんか水辺で倒れてたから陸地に引き上げたけど、助けないほうがよかったかな? 自殺者?」

 女の子が首をかしげる。俺はそれに微笑んでみせた。微笑むのなんて、もうどれくらい振りだったかも覚えてない。

「いや、自殺者じゃない。まだやることがあるからね。ちょっと、ゲフェンまで案内してもらってもいい? 凄く疲れてて、一人でたどり着くにはしんどい」

 女の子が頷き、こっちこっち、と歩き出した。しかしすぐにくるりとこちらへターンする。

「ねぇ、あなたの名前はなに?」

「名前?」

「そう、名前。自殺者にだって、名前ぐらいあるでしょ?」

 彼女が変な人ね、といったようにくすりと笑う。名前、名前か。思えば、人に向けて名前を言うのなんてとても久しぶりのことだ。我々はただの道具であり、名前なんて必要なかったからだ。

 しかし、今は変わってしまった。俺はもうすでに『我々』ではない。

「俺の名前はクラインっていうんだ。覚えておいてくれ」

 彼女はぶつぶつと口の中で俺の名前を反芻し、再度街へと足を向けた。俺もそれについていく。

 空を見上げると、まだ月が輝いている。太陽が燃え上がるにはまだまだ時間が必要そうだ。