*ダニの一生

 雨が降っている。傘の骨を水滴が伝って落ちてきて、しっとりと僕の右手を濡らし始める。 
 僕の左手が空中をまさぐる。その中の唯一の温もりである君の手を握る。雨音が鼓膜をたたく。君の手をしっかりと握る。 
 無数の働き蜂がすぐとなりを通り過ぎる。 

 現実は君のそばで常に息づいている。僕にとって君が現実であり、それを成り立たせるメタファーである。 
 だからこそ僕は君の手を握り一緒に歩こうとしたんだ。誰のためでもなく、前を見据えて不器用なりにも着実に進む君のために。 
 けれど世界はとても儚く、脆い。僕らの地面を支えているのはスポンジでできた無数の象であり、それはとてもじゃないけど夢を支えられるほどの強固さはもってはいない。しかし諦めて落とした夢を吸い取り肥え太っていき、夢を拾い直そうとすることを拒む。 

 足元へと目を落とすと僕の靴はいくらかぬれてしまっている。たぶん、家にたどり着く前には靴の中は濡れてしまっているだろう。 
 それはどうしようもない事実だ。僕がどう足掻こうとそれは変えられない事実として目の前に立ちはだかり、そして徐々に侵食されていく。雨の日に靴の中まで思いきり濡れる。その事実はメディアでありふれている運命よりももっと現実的なファクターを伴った運命なのだろう。 
 だから僕は君の手を握る力を少し強くした。君は僕の顔を不思議そうに眺める。僕もそれを正面から見つめ返す。すると君は白い肌を赤く染めた。 
 たぶんそれも、一番身近にある運命のひとつだ。 

 大切な話をしよう。過去に生きていた哀れな騎士の話だ。人に守られてばかりの、ただ醜いだけのナイトの話だ。 
 彼には守りたいものがあった。彼は、幼なじみである彼女を守ろうとしていただけだった。しかし、それにしては彼は脆弱すぎた。 
 彼が小学校に入ったあと、いじめられるにはそう時間がかかることではなかった。彼は背が低く、気が弱かった。そして家も貧乏で、容姿がいいわけでもない。苛められる原因は多々あった。それは本人も自覚していたことだろう。 
 彼には学友と呼べるような友達はいなく、何のために日々を積み重ねているのかが自分でも分かってはいなかった。 
 ただ、そんな彼でも一人だけ友達と呼べる人がいた。幼なじみの女の子だけだった。 

 携帯電話が電子音を響かせた。どうやらメールがきたようだ。メールを開封してみると、なんてことない出会い系の宣伝メールだった。 
 内容を一通り眺める。どこにでもある、男性を引っ掻けようとするだけの安い宣伝。果たしてこの世界に引っ掛かる人がいるのだろうか? いるのだろう。時には中身がない方が大きなことを起こせることもある。 
「誰からのメールだったの?」 
 君が首をかしげる。なんでもないよ、ただのリソースの無駄遣いだ。そう答えると彼女はそっか、とだけ答えた。 
「まだ君は夢を追いかけている?」 
 僕の質問に、彼女は小さく頷いた。 

 彼女は歌手になるのが夢だった。自分で作詞作曲し、自分で歌うシンガーソングライター。彼女は三日に一度放課後の音楽室を借りて練習しているのも知っている。 
 彼女の声はか細くよく通るものだった。僕はその声が好きで何度か褒めたことがあったけれど、彼女はそのたびに顔を赤くしてやめてよ、と口ごもった。 
 僕は彼女が歌手になることになんの疑問ももたなかった。たぶん、彼女の歌声を聞いたら誰もがそう思うだろう。彼女の調べはとても美しく、僕らの心にある社会を生きる上でできた堤防も彼女の歌声の前には効果をなさず、内面へとすっと入ってくる。そんな彼女が歌手になることに歌手になれないはずがなかった。なれないとしたらたぶん彼女のせいではなく、それはきっと社会が悪いのだろうと思った。 
 彼女が音楽室に行く時は僕も一緒について行った。それだけで音楽室という空間は学校のものではなく、僕らは二人だけの特別なものになった。僕らはそこでいろいろ雑談もしたし、彼女が自分の作った歌について感想のやり取りなどもした。 
 そのときだけは、確かにこの世界は僕らのために回っていたはずだ。 

 僕は気づいたら彼女のことが好きになっていた。何かあったら守ってやりたい、そう思っていた。好きな女の子が困っていたら、助けてあげたいし守ってあげたい。それは男なら、みんなもわかるだろう? 
 けれど僕には特に彼女にしてあげられることなんてなにもなかった。僕はただそばにいることしかできなかった。特技もなにもない僕がしてあげられることなんてそんなものだろう? 
 それどころか彼女に守られることが僕の日常になっていた。僕がいじめられているのを目撃するたびに彼女は僕を庇ってくれたのだった。そういうところもまた僕が苛められる理由になるのだけれど、だからといってなんと言えばいいのだろう? 
 しかし、そんなことが永遠に続くわけない。全てには終わりがあって、どうしようもなくなる。それが、確かな現実なのだろう。 

 彼女が隣を歩きながら歌い出す。透き通った声が空から降る水滴の間をうまく通ってあたりへ響く。 
 初めて聞いたメロディーだった。僕が新曲なの? と聞くと、彼女は「そうよ」と答えた。僕は傘を握り直す。手は完全に濡れてしまっていた。 

 ある日、いつもの音楽室で彼女は僕に打ち明けたことがあった。それは強く僕の胸を突き刺して苦しめることになったのだけど、たぶん彼女がそれを知ることはないだろう。 
「私、好きな人ができたの」 
 西日が照らす音楽室の中で彼女は演奏をいきなりやめるとそう呟いた。始めは僕に言ったのか曲の歌詞だったのかわからなかったけれど、彼女の物憂げな表情を見て彼女の言葉であるということを理解した。 
「おめでとう」と僕は言った。それだけ言って、言葉を続けることはできなかった。それ以上何を言えばいいのだ? 言いたいことが胸の奥でたくさん生まれてはしぼんでいった。 

 僕はずっと昔に一度だけダニの一生について考えたことがある。ダニの寿命は知らなかったけれど、ただ一つだけ分かることがある。彼らは淘汰される側であるということだ。 
 蚊みたいに自由に飛ぶこともできず、ゴキブリみたいに自己主張もない。僕らのそばに生きているのに、僕らには気づかれることもなく生きている。見られることもないのに害虫として駆除される。 
 誰の目にも触れずに生まれ、駆除される一生を負った彼らは生きてから死ぬまでに何を考えて何を思っているのだろうか? 
 彼女が僕に好きな人がいると打ち明け夜、そんなことを延々と考えながら僕は泣いた。 

 それから僕は音楽室に立ち寄らなくなった。彼女はひとりで演奏しているのかと思うと少し胸が痛んだ。けれど会わせる顔がなかった。僕は彼女が好きだったし、たぶん彼女はそのことを知らなかったのだろうと思う。そんななか、どんな顔をして会えばいいというのだ? 
 僕へのいじめは日を増してひどくなってきた。僕の体の外からは見えないところには常に痣ができるようになった。いくつかの痣は何週間経っても消えず、一生背負っていくものなのだなと頭のどこかで理解した。僕を守る人がいなくなったから僕へのいじめがエスカレートしたのだろうと思った。いつもいじめてくるやつが僕のことを呼びにきたときに彼女の方をちらっとだけ見たことがある。けれど彼女は僕の方なんて見ずに窓の外へと目を向けていた。 
 ああ、もう助からないんだな。彼女はもう僕を守ることを放棄した。そして僕はひとりぼっちになった。 

 君が僕の手をきゅっと握り直した。君の手はとても暖かい。 
「実は一度だけ、音楽室を覗きに行ったことがあるんだ」 
 僕の言葉に君が目を丸くする。そして斜めに首をかしげた。 
「そうだったの?」 
 僕は頷く。 
「僕が音楽室に行かなくなってから2週間後かな。窓からちょっとだけ覗いただけだったんだけど、相変わらず君は同じ場所で演奏していたんだ。そしてかつて僕がすわっていた場所には知らない男の人が座ってたんだ」 
「それは悪いことしちゃったかな」 
 僕は首を振った。悪いことなわけがなかった。既にその場所は僕に所有権はなかった。僕が自分で捨てたんだ。なのに文句なんてあるはずがないだろう。 
 雨が降り続けている。いつの間にか前髪が若干濡れていたことにそこで気が付いた。空へ目を向けると、遠くの空にも晴れ間などはなく分厚い雲が覆ったままだった。今日は随分雨が降るだろう。明日は晴れてくれないと割に合わない。 
「けど、それでも私のことを嫌わないでいてくれたんだよね」 
「当たり前だよ。そう簡単に嫌いになんてなれるもんか」 

 音楽室に行かなくなってから1年ぐらい過ぎた、今日のような雨の日に僕と彼女の話は終わることになった。 
 その日、僕が学校につくと廊下に聞こえるぐらいに教室から言い争う声がしていた。その前日も僕はこっぴどくやられていて、ついでに珍しく頬に一発もらっていたから顔の痣を気にしていたせいで言い合っていた声なんて気にしていなかった。 
 しかし、その声が誰のものであったのか判別がついたとき、ようやく僕は興味をもった。教室を覗くとその中に言い争う男女の姿。間違いなく、教室の中心になっていたのはその二人だった。音楽室の彼女と、その彼氏。僕がなれなかったもの。 
「もう知らない!」 
 彼女はそう言うと教室を飛び出して行った。僕の脇を通り抜ける時に僕のことをちらっと見て悲しげに目を伏せたけれど、それは彼にたいしてなのかそれとも僕の顔の痣を見てなのかは判断つかなかった。 
 そして教室はいつも通りの静かさと喧噪を取り戻す。いつもと違うことと言えば、たぶん僕と彼女と彼の内面の問題ぐらいだった。 

「ねぇ、あのとき僕は追いかけた方がよかったのかな?」 
「追いかけられても、きっと結果は変わらないよ。それはたぶんどうしようもないことで、変えられない事だったんだと思う。ねぇ、運命って信じてる?」 
 彼女が僕の手から傘を奪い、走りだす。そして10メートルぐらい離れたところでこちらを振り向いた。 
「運命?」 
「ええ、そう。運命。私は運命、信じてるよ。だからあのときああなったのも、たぶん運命だと思うの。だって、運命っていってもいいことばかりじゃないと思うから」 
「けれど、君は帰れなくなった。それも運命だと、受け入れるの?」 
 雨の地面を叩く音が一際大きくなった。僕は既に前進ずぶ濡れだった。強い風も吹き始め、少し離れた風景も見えなくなった。 
 そのとき、確かにこの世界は僕達を中心に回っていた。僕と彼女と、彼女の声と、小さな耳鳴り。あとは、雨の音しか聞こえない。 
「私は運命だって受け入れるよ。受け入れるしかないじゃない。だって、私はもういないんだもの」 
 つい先程まで僕がもっていた傘が地面に落ちて不格好な音を鳴らす。既にその傘を支える存在は消えうせ、それがいたはずの場所にはただ雨が降り続けているだけだった。 
 僕はそのままそこで立ち尽くし、首だけを回して当たりを見渡した。けれどそこにはすでに何もいなく、僕と雨の音、そして彼女の残滓しか残っていなかった。