朝焼けの中、家をでる。ひんやりとした空気が僕の頬をなでた。息が白い。
僕は大きなリュックとキャンバスを抱え上げ、住み慣れた実家に背を向けた。たぶん、これから何年もここには戻らないだろうと思う。
ふと、僕は振り返ろうとして、やめた。最後に自分が住んでいたところを見ておこうと思ったけど、ここで見ると決意が鈍るかもしれない。だから振り返らずに、僕は歩き出した。
ここはなにもないところだ、と思う。回りには田んぼと山しかない。自宅から駅まで出るのに四十分も歩くのだ。ひどい田舎だ。あたりには店もなくて、車もバイクも持っていないやつは四十分歩いて電車に乗り、少し多き目の街まで行って買い物して帰ってくる。とことん不便な場所だ。
僕は今日でこことさよならするつもりだった。僕の夢は絵を描いて食べていくこと。いうなればプロの絵描きになる、ということだ。いつまでもこんな田舎でくすぶっていては確実になれない、そう思った。なんせ、絵描きは人に絵を見られてなんぼ。ここにはどうやっても人に見せることなんてできはしない。見てくれる人だっていないし、見せる人だっていない。
やがて、額に汗を浮かべながら駅のホームへと入った。無人駅だ。
荷物が重い。ベンチに座る。喉が渇いたと思い、自動販売機をあたりに探したけどなにもなかった。本当に田舎。
「これ、飲む?」
目の前にコーラが出される。「ありがとう」僕はそう言ってコーラを受け取った。プルタブをひくとぶしゅっと音がする。
「どういたしまして。……となり、いい?」
となりに座ってもいいか? の意。僕はいいよ、と答えた。ベンチにふわりと女の子が座る。
「暑いよねー」
彼女……結城秋葉が手に持っていた缶ジュースのプルタブを起こす。ぺりぺりという音。バヤリースのオレンジだった。
「そうだな」
僕は答えた。そしてコーラをひとくち飲む。炭酸と甘みが喉を駆け下りた。
ゴーっという音がする。大気を揺らせる音だ。遠くの空を見つめてみると、ジェット機がゆっくりと飛んでいた。あれが電車よりも早いだなんて、乗ったことのない僕にはちょっと信じられない。
「やっぱり行っちゃうんだよね?」
僕は秋葉を見た。彼女はまなじりに涙を溜めて、今にも泣き出しそうだった。その表情を見て、少しだけ決意が揺らぐ。彼女を置いてなんて行きたくはない。一度行ったら、もう何年も会えないかもしれない。けど、ここにとどまるのも嫌だ、と思った。僕だってここが嫌いなわけじゃない。だけど、夢に向かって生きたかった。妥協するなんて嫌だ。
「うん」
一言だけで答えた。秋葉は「そっか……」とつぶやいてうつむく。彼女も離れたくないんだ、と思った。そのしぐさにまた、決意が揺らぎそうになる。だから僕は視線を彼女から田園へと向けた。彼女が不意に手を握ってくる。僕はそれをぎゅっと握り返した。小さなぬくもり。夏の暑さとは違った、優しすぎる熱。僕はゆっくりと目を閉じた。
目を閉じると、夏の香りに気づく。太陽と風と、自然のにおい。それを思い切り吸い込んだ。吐き出して思う。やっぱりここにいるだけじゃダメなんだ。ここは綺麗なところだけど、夢は落ちてなんていないんだ。
僕は彼女に悟られないように、まぶたの裏で小さく泣いた。と、それを見計らっていたかのように電車がホームへと滑り込んでくる。僕は荷物を抱えあげると、立ち上がった。
「行っちゃうんだね」
秋葉が言った。彼女の頬からは涙がこぼれている。その涙はまるでなにかの宝石のように輝いていて、綺麗だった。僕は今まで、あんな綺麗な涙を見たことなかった。
「うん、これ」
僕はバッグのなかをごそごそと探り、一枚の絵を出す。いつか、描いた絵。秋葉を描いた、絵。それを彼女に渡した。彼女は絵を受け取ると、それを抱きしめながら崩れ落ちた。頬を伝って顎から落ちる涙が、絵に当たるとはじけて染みこんだ。
「それじゃ、行くから」
電車に乗り込んだ。扉が閉まる。彼女がはっと顔をあげて立ちあがった。
「待って! 待ってよ! 私を置いていくの!? 一人で行っちゃうの!?」
僕はごめん、と声には出さずに口の動きだけで言った。電車がゆっくりと走り出す。彼女もそれにつられて走り出した。
「なら最後に!」
彼女が走ってくる。僕は秋葉の動きからなにをしようとしているのかわかった。それがおかしくて、僕は苦笑した。
僕はガラスの窓に顔を近づけた。彼女の顔も迫ってくる。
僕たちはガラス越しにそっと、キスをした。
***
秋葉は電車が見えなくなるまでこっちを見つめていた。少しの罪悪感。だけど、彼女を連れてはいけない。どうしてか? 僕には彼女を幸せになんてできるかどうかわからないからだ。
僕の目指す街まで遠い。ここと違って夢が落ちている街だ。ついたころには夜になっているかもしれない。
窓の外の空を見上げる。真っ青な空。雲が広がっている。向こうについても、ここと同じ空が見れるだろうか?
ふと、頬が濡れていることに気がついた。手で頬をなでると、涙だった。気づくと僕は泣いていた。
僕は静かに泣き続けた。どうしようもなく、涙を止めることなんでできるわけでもなく、涙が枯れるまで泣き続けていた。
了 |