*きみがいらない

 君が僕の手を握り走りだす。終わりは短くて、もうすぐ私の永遠が始まってしまうの、と君が言う。立ち止まれ、この先には何もない。ナイフと呼ばれる彼が僕を止める。けれど僕は走りやめることはしない。 

 時刻は深夜一時を過ぎている。遠くで犬の吠える声が聞こえる。冷たい空気が僕の耳を赤くする。すぐ近くからは君の荒い息が聞こえる。 

 君は昔、僕に向かって言った。今とは違う暑い夏の日の海で。「確かなものなんてここにはないわ。ねぇ二人で探しに行きましょう?」あの日も君は僕の手を握り歩きだした。君はそのまま海へと入り、僕はそれを追い掛けた。 

 その先には確かなものなんてなかった。その先には水があっただけで、どこにも続いてなかった。けれど、それでもよかった。そんなことに意味なんてなかったし、意味を見出す気もなかった。なんでかって? 決まっているだろう、重要なのはそんなことじゃない。 

 ナイフと呼ばれる彼が声を荒げる。この先は危険だ、入ってはいけない! 僕はその忠告を無視し、彼女に手を引かれて林の中へと入っていく。遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。それは僕を警戒しているようにも聞こえたし、僕が林に入ってくることに歓喜しているようにも聞こえた。 

 君は海に入る前に僕に笑顔で訊いたんだ。ねぇ、この世界に楽しいことなんてあった? 僕は答えた。あったよ、当たり前だろう? この世が楽しいから、僕はまだ生きていられる。君はさらに質問を続けた。じゃあ、あなたの楽しかったことって何? 

 ……そんなこと答えられるはずがないだろう。それを答えるには僕はまだ若く……若すぎた。 

 ナイフと呼ばれる彼が叫ぶ。これ以上先には進んではいけない。あのケヤキの木を越えてはいけない。あれを越えたら、君はもう戻れなくなる。僕とは離れなければいけなくなる。これ以上進んではいけない。これ以上進んではいけない! 

 けど、今の僕にはそんな言葉なんて耳に入らない。僕はそのまま木を追い越す。どこかで犬が絞め殺される声が聞こえる。ああ、そうか。これはどこかで遠吠えをしていた犬の叫びだ。 

 君が走りながら僕のほうを見て微笑む。彼女の走る速度が増し、僕の手を引っ張る力が増す。それにあわせて僕も走る速度を上げる。ナイフと呼ばれる彼の声は、もう僕には聞こえない。 

 林を走りぬける。その先にはただっぴろい野原と、その先にうっすらと浮かぶオレンジの月。僕の手を引いていた彼女は僕の手を離して野原の中心まで行くと、くるりと一回転してにこりと笑った。 

「ねぇ、あなたは確かなものを見つけることができた?」 

 彼女は僕のほうへ両手を差出しながらそう質問してくる。月を背景にした彼女はとても美しくて、彼女が僕に質問したことを一瞬忘れそうになったほどだ。 

「見つけることなんてできなかったよ。なにか大切なものがあった気がしたけれど、それすらもここにくるまでになくしてしまった。もう、僕には、なにもない。 

 君は確かなものを見つけることなんてできたの?」 

 僕が質問をすると、彼女は僕から背を向けた。そして月を今にも抱こうか、というように両手を広げる。 

「あなたは昔、楽しいことがあると答えたわよね。その楽しいことってなんだったのか、教えてくれるかしら?」 

 再度彼女がこちらへと向き直る。その目は軽く伏せられていて、まるで泣いているようだ。 

「いいよ。僕が楽しいことがある、といったのは君が一緒にいたからだ。あのとき、君がよくそばにいてくれた。それが僕が世界を楽しいと思った理由だ。だから、君がそちらに行きたいと思っていたから、僕も一緒に行こうと思った。 

 君がこっちの世界から向こうの世界に行ってしまうのなら、僕もそれについていこうと思った。たぶんそれが正解だったんだろうし、最善であったんだろうと思う。あの時、それができてれば、ね。 

 けど現実はそうはうまくいかなくて、僕はそちらにはいけなかった。君だけはどうにかうまい具合にそちらの世界へといってしまった。だから僕らは離れ離れになってしまった」 

 僕は彼女のほうへと歩み寄っていく。彼女が優しく微笑む。僕の体はやけに重く、一歩一歩踏み出すたびにスニーカーのラバーが地面の土に少しずつめり込んでいくのを感じる。けれど、僕は気にせず歩き続ける。 

 僕は彼女の前まで着くと、彼女のことを正面からしっかりと見つめた。彼女も僕のことを見つめてきた。僕らの視線は、確かに、かっちりと、合わさった。 

「ねぇ、今からでも遅くないわよ。こちらに来ましょう? ああたが望んでいた、あなたが楽しいと感じていた私はここ――― 

 僕は彼女の手を握る。それはとても冷たく、とても重かった。 

「君は僕の望んだ君じゃないよ。僕も君と一緒にそっちへいけてたらよかったんだろうけれど、偶然君はそちらへ行けて、僕は戻ってきてしまった。その時点で僕らは一緒にはいれない運命だったんだ。 

 君は元々僕が望んだ君だったけれど、今では完全にもう別のものになってしまった。君は、すでに、僕が望んだわけじゃない君になってしまった。 

 僕は、僕が望んだ君じゃないのなら、君のことなんていらないよ。君の居場所はこっちじゃない。冷たく暗いあっちだ。ほしいものじゃないのなら、僕は、いらない」 

 彼女の笑顔にひびが入る。そのひびは比喩ではなく、文字通りだ。彼女の顔に入ったひびはぴきぴきという音を立てながら広がり、首を裂き、腹を貫き、やがて足の先へと抜けた。そのひびは大小さまざまに枝分かれし、彼女の全身へと血管のように広がると、彼女の体はがらがらと崩れ落ちた。 

 崩れ落ちた彼女はそのまま砂山と化し、何事もなかったかのようにただそこにあるだけのものとなった。僕はその砂山を笑顔で踏みつけた。 

「君がいたのは僕の過去であり、現在にも未来にも君の居場所なんてないよ。いいかい? 僕のほしかった形じゃなくなったなら、僕は君なんていらないんだ。たぶん君は、本当は僕のことに興味なんてなかったんだろうね。だからわからなかったんだ。僕にはもう、別にいるものがあるんだから。 

 さぁ、ナイフ。まだいるんだろう? そこらへんで見ているのはわかってるんだ。帰ろうか」