ポトス


 一晩が過ぎ、僕は目を覚ました。体を起こして部屋のなかを見渡す。ただの見慣れた風景。いつもの部屋。

 けれど、その見慣れた風景の一角に見慣れないもの。彼女だった。

 彼女はずっと部屋の隅、出窓の上に体育座りをして僕のことをじっと眺めていた。特になにかいうわけでもなく、じっと。じっと。

「おはよう」

 彼女が警戒しないようにやんわりと言った。たぶん、僕ができる最大限の優しさを含んだ声、と言っても過言ではないと思う。そして彼女から挨拶が返ってくるのを待った。……けれど、それは叶わなかった。なぜなら彼女は「おはよう」とは言わずに、「私に……一杯のお水をくださいませんか?」と喉を枯らして言ったからだ。

「うん、少し待ってて。今とってくる」

 そう言うと、彼女は小さくこくりと頷いた。心なしか、目元が疲れているようにも見える。もしかすると、昨日の夜は寝ていないのかもしれない。

 僕は部屋を出るとキッチンまで行きコップに水を注いだ。どうせならミルクやコーヒーのほうがいいかと思ったけれど、なんとなく彼女は水しか飲まないような気がした。だから彼女用に水と、僕用にココアを作って部屋に戻った。

「ほら、水だよ。水道水なのは勘弁してくれないかな……普段、水を飲むような習慣はないからさ、ヴォルヴィックとか六甲の天然水とかそう言うのはないんだ」

 彼女にコップを渡すと、彼女は少しずつ……本当に少しずつ(水が減っているかいないかぐらいの割合で)飲んでいった。正確には、ゆっくりと飲みながら全身に水をいきわたらせているようだった。それはあながち間違っていないのだろう。たぶん彼女は、確実に全身に水をいきわたらせているのだろう、と思う。

 僕も彼女の様子を見ながらココアを飲んだ。僕はちゃんと普通に飲んだ。なので茶色く甘い液体がなくなり、マグカップの真っ白い底が見えても、彼女はまだ水を半分も飲んでいなかった。

「すみません、もういらないです。これ以上は、飲めません」

 ふと、彼女が顔を上げて僕にそう言った。そして最後に微笑んで「ありがとうございます」と言った。その笑顔に僕はどきりとした。その笑顔は、僕が初めて見た彼女の笑顔だったのだ。

 と、すぐに彼女は表情を引き締める。それに対して、僕はとっさに身構えてしまった。たぶん、なにか真剣な質問がくるのだろうと思う。

 そして、その予想は間違ってなんていなかった。

「どうして、あなたは私をここに連れてきたのですか?」

 彼女は僕の目を真摯に見つめて、確かにそう言った。その目は回答拒否を許さない傍ら、その理由がわからないと不安で揺れている目だった。静かな光をたたえた、怯えているけれどしっかりした目。

 それに対して僕はどう言葉にするべきか? と、一瞬頭をひねり、こう答えた。

「とりあえず、新しくココア入れてから話すよ。いいね? 君も、ココア飲むかな?」

 彼女は首を横に振り、少し長い髪をさわさわと揺らした。

***

「せっかくの心地よい朝なのに、雨が降るってなんだか残念だね」

 僕がココアを片手に部屋へ戻ると、外ではざぁざぁと雨が降り始めていた。天気予報では降水確率は低かったから、たぶん一過性。通り雨だと思う。

「さて、さっきの答えだけど……」

 ベットに腰かける。彼女はいつもの間にか出窓から床に降りていた。きっと、彼女にとっては日光が強すぎるのだろう。僕の部屋の出窓は、よく光が当たるからだ。

「どうしてです……か?」と、彼女が僕の目をまた覗き込んできた。

「君が泣いていたからさ。昨日、僕が君の前を通りかかったとき、もう日は完全に暮れていた。……君が月明かりを浴びながら泣いていたから、僕は君を持ち帰ろうと思ったんだ。……別に、持ち帰ったからなんだ、というわけじゃない。ただ、泣いているやつを放って置けなかったんだ」

「そう……なんですか?」

 彼女が少し頬を赤らめてうつむく。僕は彼女の質問を無視して話を続けた。

「他にもある。例えば、僕は極度の寂しがりやなんだ。だから、家に帰ったときに誰かいてくれると、凄く嬉しいしなんだかほっとする。他にはただの気まぐれっていうのもある。これ以上言ってもキリがないから、これ以上は言わないけれど。……そんなわけで、だ」

「はい……」

「君にはうちにいてもらいたいんだ。僕の勝手なお願いだけどさ。嫌だったらいい、出て行っていいよ。ああ、でも突然外に放り出すとか、そういうことはしないから安心していい。ちゃんと住家も見つけてあげる。だから、なにも心配しなくていい。……けれど、できればうちにいてほしい。

 僕はね、さっきも言ったけど極度の寂しがりやなんだ。そのうえ、泣き虫なんだよ。だけど、君のことは僕が保障する。君はいつまでもここにいていい。ちゃんと生活も保障する。君の嫌がることはしないし、君のほしいものは買ってあげる。

 けれど、君は特になにもしなくていい。ただ、僕が帰ってきたら静かにお帰りって言ってほしい。時々微笑みかけてほしい。話しかけたら、会話をしてほしい。僕が悲しくて泣いたら、その涙を飲んでほしい。それだけで僕はずっとやっていけると思うんだ。君がいれば、やっていけると思うんだよ。

 君が死んだら、日の当たるところに埋めて、一緒に暮らそう。僕は死んでも、いつまでも君のなかで生き続けると誓うよ。ただ、僕のそばにずっといてくれたら、僕はいいんだ」

「はい……」

「ダメかな?」

 こんな質問をするのは卑怯だと思った。彼女にはもう、どうしようもないのだ。彼女は僕の部屋で暮らすしかないのだ。拒否権などなく……拒否権があったとしても、彼女は僕の部屋で暮らすしかなかったのだ。

 だから、彼女が返事をする前に、僕は彼女が言うであろう答えはわかっていたのだ。

 その彼女、ポトス(観葉植物)