*レイジ

 コップひとつ、テーブルの上に存在する。他には既に空っぽになったプリングルス。その近くには水のわっかが乾く気配もなく、ただぽつんと存在する。

 君は空っぽのコップに氷を入れる。からんという音を立て、氷たちはクルリと回った。初めまして、こんにちは。このまま僕らはここでまとまり、いつかは消え、水になる。

 君がコップの縁を指でなぞった。その心はどこにあるのだろうか。探したところで見つからないだろう。それはこの部屋じゃなく、もっと広いこの町にもなく、きっともっと別の場所にあるんだろう。君は自分の心を探してきっとさまよい歩いているのだろう。ここにあるのはただの抜け殻で、しかし注ぐための器であるのだろう。

 つけっ放しのテレビでニュースキャスターが神妙にスポーツ選手の浮気について語っている。君の目はそれを捉えてなんかいない。耳もそれを捕らえてはいないだろう。それは機能を果たしているが、神経が通ってなければただのそういうもの、というだけでしかない。

 君は息をしているだろうか? ふと、思った。椅子に座り、コップの縁をなぞり、ただそこにいるだけの君は果たして息をしているのだろうか? その肌には体温があるのだろうか? 僕は手を延ばそうとする。しかしガラスという透明な距離感に阻まれる。それは絶対的なもので、どうしようもないものなのだ。

 僕はただ君に恋い焦がれる。徐々に溶け始めている僕の体と同じように、徐々にその命も溶けている。永遠はない、ということを僕自身が体現している。だからその止まった君のネジも早く巻かないと、止まってしまったまま終わりを迎えることになってしまう。しかし君の目には僕すらも入り込んでいない。映ってはいるが、意味がない。君はただそのか細い人生で小さな永遠を求めている。目の前に有限があるのに。

 時計の音だけが、僕らの間に流れる。こつこつという現実からのノック音が、我々の世界を打ち崩そうと必死に響く。残りの命、か細い声、闇の濃さ。それらすべてに無情として現実のドアを開こうとする。

 テレビが遠く向こうの世界を知らせて来る。スキャンダラスなものから世界の貧困、エイズの蔓延などの話にシフトしていた。黒人の小さな女の子が泣きながら父親の死と、金鉱山でのHIV感染に嘆いていた。金は私達にいくばくかのお金を残しました、しかしあれはかけがえのないものを奪って行きました。評論家も「この国では金が主要産業になり、木材の伐採等をやめて金鉱山に一本化しました。他の資源も乏しく、インフラ整備も追いつかず、このままでは金で現金は得れるものの、暮らしが豊かになるなんてことはないでしょう」と言う。

 僕より二つ下にあった氷は既に溶けて水になりかけている。評論家がなんといおうと、そんなことがどうだというのだ。嘆くなら、テレビにでれるほど富も名誉もあるならば、お前自身がその国に行って守ってやれば良いだろう。いつもなにもしないやつが、なぜかいつも偉いのだ。

 コップを撫でていた君は不意に立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を取り出して僕らの上に注ぐ。僕はその中で浮かび、君との距離を少しだけ消化する。君の顔が近づくと、そのまなじりに小さな滴が光っていることが確認できる。

 大事なのはすぐそこのアジアでも、地球の反対側のアメリカでも、隣の家の出来事でもない。僕の目の前にいる君のその涙と、その訳を。それが僕が消えてなくなるまでに重要なことなのに、それでもなにも僕にはくみ取れない。世界の端で起こったエイズ感染とかよりも重要なものは、目の前の君で、世界の中心も君なのに。

 僕は君に手を伸ばす。届く要素もなにもない。ただその手のひらに積み重なるものは永遠とも取れる静かな沈黙と、わずかな空気、あとは多大なる悪意をもった闇だ。君を取り囲むその闇は見た目では明かりで追い払われているが、それでもその体に纏わり付いている。目をこらすとそこここにそれは存在し、僕らの喉笛をかき切ろうと常に狙っている。

 暗闇の中に存在する、その小さな……しかし強大な狂気に僕は恐れおののく。君の命は尊く、そしてかけがえのない存在だ。そんな得体の知れない筐体に、その細い喉をかききらせるわけにはいかない。

 時計の音がこつこつと響く。それと共に、僕の体も徐々に溶けている。視界には結露ができ、君の顔さえぼやけて見え始めた。

 それでもそこにある息遣いだけは確かに分かる。

 僕は君へと再度、手を伸ばした。その存在を、意義を、確かな質量を、そこにそれは在るものだと確認したかった。

 たぶん、僕に残された時間はそれで全て使い切るほどだ。執拗に僕は君を求め、心を求めた。ここにいるのは君だけじゃない。君のその悲しみも、抱えているべきじゃないんだと、伝えたいと思ったんだ。





 しかし君はそんな僕の思いに気づくことはない。この短い一生はあと少しで溶けてなくなってしまうだろう。

 君の悲しさも孤独も、そしてそこにいた理由も目指したものさえも、暗闇の狂気に食われ、消費され、養分とされ……そしてその狂気はまた別の存在を蹂躙し始めるのだろう。

 けれど、それまでにはまだ時間があるはずだった。そこにただある暗闇は、手を伸ばして振り払えば消えるはずのものなのだ。

 テレビではまだ、世界の端のエイズについて、誰かが喋っている……。