*サイダーマン

 茜色に染まる空を背景に君は笑う。僕がただ適当に吹く口笛に、君はほほ笑んだまま自由なメロディをつける。

 たぶん、この光景はいつか忘れてしまうものなのだろう。心を開き、その世界をただただ焼き付ける。

 八月の暴力のような暑さは既に萎えてきているとはいえ、長袖にするにはまだ早いというぐらいに木々は生い茂っている。

「きれいだね、空」

 彼女は言った。僕は頷いた。

「あたしさ、夜より夕方の薄暗さ、赤さ、そのほうが好きなんだ」

「俺には眩しすぎる」

 風が凪いで、我々の前髪をゆっくりと揺らす。その風で砂が目にはいるのを警戒したのか、それとも太陽が眩しすぎたのか彼女が目を細めた。

「夜の闇はあたしには深すぎるんだ。見ていると、なんか飲まれそう」

 僕は押していた自転車にまたがり、後ろを指さした。

「乗って行く? 少なくとも、夜の闇に飲まれる前に帰ることはできるよ」

 彼女がそうだね、といって後ろの荷台に乗った。僕の肩がしっかりと掴まれるのを確認すると、ペダルを踏む足に力をいれた。

 周りの風景が我々の後ろへと足早に駆け抜ける。

「けど」

「ん、なーに?」

「月の明かりは優しいよ」

 背中で彼女が小さく頷いた。

 空を見上げる。僕には消えかける太陽が断末魔の叫びのように燃え上がったようにしか見えなかった。

 当時、世界は敵にまみれていた! 我々の平穏を脅かす鷹の爪団を名乗る黒服の戦闘員がたびたび街に現れていたのだ!

 我々人類は彼らに対抗するために、新たな兵器を作り出す必要があった。このままでは世界はのっとられてしまう、なんとかしなければ!

 そこで我々は味方である人間を改造し、兵器として活用する事になった。それを人々はサイダーマンと名付けた。彼らは活動エネルギーとして、炭酸がたっぷりと入ったサイダーを口にしていたことからそう呼ばれた。

 サイダーマンは自分が兵器である、常に政府に監視されているという己が不運を自分の中へ押さえ込み、黒服の戦闘員へと日々立ち向かった! どんな不幸も自分一人が請け負えば、我々は人類は幸せなのだという迷信で彼は突っ走ったのだ。彼は精神的マゾなのだった。

 そんな変態であった彼も、戦っているうちに疑問を持ち始めた。黒服の戦闘員という存在がなんなのか気になったのだ。

 ある時、それを政府の人間に尋ねたところ、彼らはこう答えた。

「彼らは火星人の生き残りだ」

 それを聞いたサイダーマンの心は躍った。まじで! 火星人? 残念ながら、彼はマゾの上にアホだったのである。人類が火星に降り立っていないことすら知らなかったし、疑問にもつようなこともなかったのだ。

 その後、サイダーマンは黒服のの戦闘員を倒したあと、その覆面や黒服を脱がしてみた。彼は火星人というものをタコとクラゲを足して割ったようなものだと期待していたのだ。しかし、現実は期待とは違った。黒服の中身はどこからどうみてもただの人間であったのだ。それは男だったり、女だったり、年老いているものまで様々だった。サイダーマンはそれを見てとても混乱した。あれ、人間じゃね?

 倒した黒服が女だった場合、サイダーマンは少し悪戯したりもした。それでまた彼は思った。あれ、どう見ても人間じゃね? いろいろできるし。

 けど彼はアホだった。それでもあまり深く考えずに敵を打ちのめし続けた。そしていつの間にか敵はいなくなり、我々人類は平和になったのだ。

 しかし、彼がこの世界に必要とされた時間が終わりを告げたのはそれと同時だった。打ち倒すべき敵がいなくなったと同時に彼の力は無用のものとなり、周囲の人間から奇異と畏怖の目で見られるようになった。あれ、俺ヒーローなのにおかしいな。けど、そんなことはあまり気にするようなサイダーマンではなかった。サイダーマンはここでもマゾ気質を見せていたのだ。

 それからしばらくして、周りの人間から恐れられながらも生活していた彼の元に一通の手紙が届いた。そのときの彼は既に人との交流を断っていたので疑問に思った。手紙なんて送ってくるような人間は知り合いにいなかったからだ。恐る恐るその手紙を開くと、そこにはただ短くこう書かれていた。

「実は、サイダーマンは火星人の生き残りだ」

 次の日からサイダーマンは逃げ回った。国営放送にて、賞金付の極悪犯とつるし上げを食ったのだ。

 だが、いくら人間を超越した能力をもつ彼としても長い間逃げ切れるものではない。彼はついに人類に追い詰められ、リンチを食らった。ぼこぼこにされながら、彼はやっと理解したのだ。

 黒服は人間で、政府に楯突く人たちであったこと。そしてその邪魔者である彼らを排除したあと、サイダーマンを葬ることで記録から抹消できると思ったのだろう。

 それに気づいた時、彼は激しく怒った。猛烈に怒った。しかし、彼は人を傷つけることだけはしなかった。彼は過度の暴力や罵声を受けようと、人間を憎むことができなかった。彼は歴史に残りそうなほどのマゾヒストであって、人間をすでに愛しすぎていたのだ。

 サイダーマンは満身創痍になりながら走った。すでにぼろぼろだった。目的地もなく、ただただ人間から逃げようと思い走り続けていたのだ。ついには人類に追い詰められた傷も開き、彼は道の真ん中で横たわった。すでに立ち上がる気力もなかった。

 ああ、ここで死ぬんだな。彼が漠然とそう感じた時、正面に中学生ぐらいの一人の少年が通りかかった。少年はサイダーマンの前に座り込み、まだ声変わりしていないトーンの高い声で「どうしたの?」と聞いた。サイダーマンは少年の瞳を見て思った。ああ、なんて澄んだ瞳なんだ。今でもこんな少年がいるのか!

 サイダーマンは自身が着ていたスーツを脱ぎ、少年へと渡した。少年は意味が分からない、という風に首をかしげる。

「いいか、少年。俺は正義のヒーローだったんだ。人類を守り、立派に戦い、そして人を愛した。しかし、俺はもう駄目なんだ。だから、それは君がもっていてほしい。君もいつか、然るべき時になにかと戦う日はくる。絶対にくるんだ。君はそのとき、それをまとって戦うと良い。それを着ている人間は絶対に負けない、折れない、捩れない。いいか、俺との約束だ」

 少年はよく分かっていないようだったが小さく頷き、消える者にとってはどうでもいいが大切な質問をした。

「おじさんの名前は?」

「サイダーマンだ」

「なぁ」

 自転車の後ろに乗っている彼女へと声をかける。

「なぁに?」

「俺、実は正義の味方なんだ」

 後ろで彼女が笑った。僕は笑わなかった。

「正義の味方ってことは、悪を倒すの?」

「そうだよ。といっても、俺は表舞台に立つことはないけどね。サイダーマンって知ってる?」

「なにそれ、ダサい名前……。なんかのヒーローのアニメとか?」

「違うよ」

 僕は小さくため息をついた。自転車のハンドルを握りなおす。空を見上げると月が輝いている。まるで僕らを見守っているかのようにやわらかく、暖かく見守ってくれている。

「家に着くまで、一度だけ話してあげる。彼は現実に生きていたんだ。サイダーマンって言う、ダサくてかっこ悪くて、見た目はただの全身タイツの気持ち悪いおっさんなんだけど、それでも表舞台で世界を守った男の話を。太陽に身を焼かれ、夜の暗さで息を引き取った、人間を愛したヒーロー。それがサイダーマンっていう、ダサいおっさんのことなんだ」