*舞い落ちる蜃気楼

 雨の降る音がする。きっと、降っているのだろう。視界をたくさんの落ち行く水滴が埋めている。

 僕は歩道の脇にあるアジサイに近寄ると、カタツムリが動いているのを見つけた。僕はカタツムリの殻に手を伸ばし、人差し指と親指でつまんでみた。そのまま少しだけ力をこめると、殻はめきめきという音を立ててヒビがはいる。

 なんて脆弱なのだろう。なんて無防備な生物なのだろう。

 アジサイの葉を見ると、カタツムリの歩いた後になにか白い帯のような跡がくっきりとついていた。これは彼が歩いてきた道であり、歩いてきた証拠である。彼の先には道はなく、彼の歩いた道が跡に残る。

 ふと、僕は今歩いてきた道を振り向いてみた。そこには僕が歩く前とはなにも変わっていなかった。これから僕が歩くだろう道を眺めてみても、そこにはなにかが残されているということもなかった。

 そんなことわかってる。生きていることになにか意味がある、というのは幻想だ。生まれた理由はあるけれど、生まれた意味なんてなにもない。現実はそんなものだと思う。奇麗事なんて、所詮全て慰めのためだけだ。

 再度カタツムリのほうへ目を向ける。僕は再度カタツムリの殻をつまみ、力を込めた。負荷に耐えられなくなった殻はくだけ、ばらばらと地面に落ちていった。カタツムリはナメクジになり、特に何の変化もなく歩みを続けた。

 やれやれ。僕も先を急ぐことにする。傘も持たず、雨の中でなにをやっているんだろうか。

 人間はとても残酷で恐ろしい生き物だと思う。人間はとてもじゃないけど、生きていくためにはスペースを確保する生き物だ。それは誰かに必要とされることだったり、自分のエゴで他人を押しのけたり、みんな仲良く少しずつどきあって作るスペースだったり色々なパターンがある。

 さて、僕が人生を振り返るときがあった場合、今までの人生においてどの方法で自分の生きるスペースを確保したのが多かっただろうか? それはそのときにわかるだろうけれど、ただ、すくなくとも、それは綺麗なことではないと思う。みんな誰もが、今日一日まともに生きることに必死だ。だからこそ、みな、スペースを誰かのために用意する。けれど、残念ながら僕は必死ではない。ただ惰性で生きているだけだ。そんなのにスペースを空けてくれる人なんて、人ならざるものぐらいだろう。

 だから僕は、全てをやめようと思ったんだ。ねぇ、この世界において、居場所をなくしたら、どこに身をおけばいいんだい? もし僕が君にしか求められなくて、僕の居場所は君のところしかないのだとしたら、君に僕が捨てられることがあるとしたら、僕はそのあとどうすればいいのだろう?

 だから、先に失うんだ。あとになって失って、罵られて、呪われて、蔑まれて、そんなのは真っ平だ。

 道に落ちていた小石を軽く蹴る。小石は数回跳ねたあと、道の脇にある側溝へとおちていった。

 なぁ、考えてもみろよ。僕は彼女が好き、彼女は僕が好き、それにおいてなにも間違いなんてない。それぐらいは僕にだってわかる。”それだけをとるならば、そこには間違いなんてない。”しかし現実はそうではない。現実は"奇麗事、いいことについては単純で、厄介ごとや悪いことはとことん複雑なのだ。"これを忘れてはいけない。

 僕は君に誓うよ。一生に一度の誓いでもいい。僕は、絶対に、君を不幸にすると思う。真っ当な人生なんて望んだ振りをしたところで、そんなものに意味はない。いいかい? "真っ当な人生は望んだところにくるんじゃない、それが普通な人が真っ当な人生を送るのだ。"僕は真っ当な人生を望んでいる。なぜ望んでいるのかって? それが現実的じゃないと自分でわかっているからだ。

 だから僕は今から失いに行く。君が大切だけど、大切だから失うんだ。ここでの悲しみはほんの数日できっと終わるだろう。80年のうちの数日だ。けど、ここで終わらないなら、君はもっと悲しみ傷つけることになる。約束する。予告と言ってもいい。予知だとしてもいい。僕の予知は結構当たるんだぜ?

 すぐそこの角を曲がれば、もうそこは君の家だ。雨にぬれ続ける人生なんて、僕一人で十分だ。君が泣く必要はない。全てこれは僕のエゴだ。

 僕が生きてきたこの人生の中で、僕が生きるためのスペースを真っ当に確保したことなんてなかった。社会というルールの上で、僕のスペースはある程度まで確保されていただけだった。そのスペースを失ってからは、君の愛情というものが僕の生きるスペースを作ってくれていた。君は何度も言ってくれたね、愛してる。けれど、僕は愛してるなんて一度も言ったことはなかった。確かに彼女のことは好きだったし、文面上では愛してるとも言えたかもしれない。

 けれど、そうではない、そうではないのだ。厄介ごとや悪いことはとことん複雑なのだ。

 彼女は僕を無条件に愛してくれた。僕のことを支えたりもしてくれた。けれど、僕が彼女にしてやれることなんてなにもなかった。愛してる、というのは相手の人生の何%かを占有し、背負うというものなのだと僕は思う。たぶん、僕が愛してると彼女に言えば、彼女も喜んでくれただろうと思う。それは「無条件で喜んでくれただろう」ということだ。しかしそこで一旦喜んでもらっても、あとで長い時間悲しむなんてことをさせたら意味なんてない。

 僕は多分、真っ当な人生なんて歩めない。普通に朝起きて、サラリーマンとして働いて、疲れて帰ってきて、ビールでも飲んで寝る。毎日のその繰り返しを、たぶん、完遂することはできない。

 愛してるなんていったら、彼女を僕の人生の一部に引きずりこんでしまうだろう。引きずり込んでしまえば最後、あとはもう助かる方法なんてない。それならば僕は、彼女を悲しませないために、奇麗事は奇麗事のままにするために、彼女と離れればならない。

 さて、曲がり角を一つ曲がるだけのためだけにずいぶんと時間を費やしてしまった。曲がる前に僕の歩いてきた道と、これから歩く道を再度見直した。

 そこには後悔も希望も夢も悲しみも怒りも光も闇も存在せず、ただ降りしきる雨と、たくさんの見知らぬ人に踏み荒らされただけのコンクリートでできた道があるだけだ。

 この道との再会も二度とない。所詮、幻想は全て地に堕ちて、そして知らずに消え行く。