*廻る、巡る、その核へ。 

 高校入試で落ちてしまった。 

 入試と一緒に僕の気分は彗星のように落ちていき、それと共に全身の力が抜けて膝が折れると丁度そこにはベンチがあった。そこでやっと、自分が自宅の近くにある公園まで来ていたことに気づいた。 

 さて、僕はいつの間にこの公園まで来たのだろう?いや、忘れてはいない。どうやってここまできたのか思い出そうとすれば思い出せる。けれど僕の無意識下の判断なのか、そのことを忘れようとしている自分に気づいた。 

 どうして僕は高校受験に落ちたのだろう? 心当たりなんてものはなったくなかった。本当にどうしたのだろう? 

 別に高校受験で失敗したからって、ここで僕の人生が終わってしまうわけではない。普通ならば、高校受験で失敗したならば普通ならば。けれど、僕が高校に落ちたのは悲しいことに三月の終わりで、もう次なんて存在しなかった。ここで終わり、僕の学生生活のゲームオーバー。始まる前にエンドロール。 

 僕はため息をついた。それはとても深く、そしてゆっくりとしていて呼吸とは違う重い後悔も含んでいた。 

 これからどうすればいい? ひどく喉が渇いているようだった。よく冷えたスポーツドリンクが飲みたい。とても飲みたい、そう思った。けれどそれすら億劫だ。そんなことをしてなんになる? 

 何もする気になれず、公園の中を見渡す。いくつかあるベンチ、申し訳程度に生えた木々、使い古されたブランコ、錆びた鉄棒、崩れ落ちそうな登り棒、その他エトセトラ。公園の中には誰もいない。 

 誰もいない? 

 再度公園を見渡すと、砂場で遊んでいる女の子が目に入った。さっき見たときにあの子はいたのだろうか? 覚えてはいない。いや、思い出そうという気にはなれない。女の子がいようがいまいが、そんなことに何の意味がある? 

 しかし特にほかにすることもなく、仕方なしに女の子を観察することにした。女の子は砂場にひとりきりで何かを作るのに必死になっているようだった。一心不乱に何かを作っているけれど、こちらからは彼女の背に隠れて彼女が何を作っているのかはわからない。 

 突然強い風が吹き荒れた。砂が舞い上がり、目に入らないようにと僕は慌ててまぶたを閉じた。顔に細かい砂がぱらぱらと当たり、軽いかゆみを感じる。そのままにしていると風は吹き止んだのでゆっくりと目を開けると、いつの間にか僕の正面に砂場で遊んでいた女の子が立っている。 

 女の子を正面からみると、幼くはないことに気づいた。少なくとも砂場で遊ぶような年齢ではなかった。きりっとした目、薄い唇、若干幼さの残る丸い鼻。顔つきは中学生ぐらいだろう。服は……幼稚園児が着ているようなナイロン製のてるてる坊主みたいなやつ、ひもでもマジックテープでもない履くだけのビニール靴、そして極めつけの黄色い帽子。中学生がそんな格好をしていることにとても違和感がある。 

 ……そういえば先ほど彼女が砂場で遊んでいたとき、彼女はそんな服を着ていただろうか? 思い出せない。思い出そうとしない。気力と記憶が素手で砂を掬ったときのようにさらさらと零れ落ちていく。色々なものが徐々に抜け落ちていく感覚。けれどそれは喪失感とはまた違う。 

 女の子は全く動かずに、じっとこちらを見つめている。その目には特に感情は見られなかった。感情以前に、その目は何も捉えてはいないようだった。視線はこちらにむいているけれど、その瞳は伽藍としている。 

「ねぇ、なにか用なのかな?」女の子に訊いてみる。さすがにこのまま見つめられていると息が詰まりそうだった。知らない女の子に理由もわからず見つめ続けられたまま平常心でいられるほど、僕の神経は太くはない。 

 僕が声を書けたことにより、彼女に何かしらの影響を与えたのは確かなようだった。彼女の瞳はゆっくりと振動し、奥には何かが宿り、そこで初めて僕が目の前にいるということを認識したようだった。 

「始めは小学生のときね」 

 僕の存在を把握しておきながらも、彼女はまるで目の前に誰もいないかのような口調で語り始める。 

「始めは不順な動機だったわね。小学五年生のとき、あなたは女の子に好かれるためにギターを始めたわ。今でもFコードに苦労したことは忘れてなんていないでしょう?」 

 女の子が軽く目を細める。まるでまぶしいものでも見ているかのように。 

 そこでいつの間にか僕は息をすることを忘れていたようで、酸素不足になっていることを心臓が警鐘を鳴らしたことで気がついた。ゆっくりと深呼吸をすると、彼女は話を続けた。 

「あの時好きだった人は誰だったかしら? 忘れたなんて言わせないわ。思い出そうとしていないだけよね。私はすべてわかってる。 

 ねぇ、覚えてるわよね? 山田久美さんだったかしら? 飯島友里さん? 惚れっぽい人だったものね。別にそんなこと責めたりなんてしないわ。人の価値観なんて結局人それぞれだもの。ねぇ、そうでしょう? 

 ただ嘘だけはつかないで。嘘なんてついても、すべて私にはお見通しなのよ。嘘なんてついても、意味なんてないのよ。いいわね?」 

 ゆっくりと頷く。いつの間にか目の前の彼女は成長している。顔はメイクされていて、マスカラがくっきりと確認できる。けれど服装はアンバランスなことに中学校などで使う、俗に言うスクール水着を着ていた。 

 いったい彼女はなんなのだろうか? 年齢も変化し服装もおかしい。狂っている、といえるかもしれない。けれど僕は特に違和感もなくそれを受け入れていた。そういう存在なのかもしれない。もしくは、狂っているのは彼女なのではなく僕なのかもしれない。 

「ギターを始めても、周囲には特に変化はなかったわね。当たり前だとわかっているのよね。まわりにはギターを始めたなんて一言も言う機会はなかったし、みんなの前で披露したこともないものね。 

 ギターはいつまで続けていたのかしら? 小学校卒業と同時にやめてしまったわね。そのときのギターはまだ部屋の隅で埃をかぶっていて、また使われる日を待っている。そうね?」 

「そうだね」答えて、僕は自分の左手首を右手で掴んだ。しかし、それが現実的な感触を帯びているとは思えなかった。感覚が完全にぼやけてしまっていて、それだけではここが現実であるということを認識させるファクターとしては不十分であるようだった。 

「中学校に入ってから三ヵ月後、生まれて初めて女の子と付き合うことになったわね。女の子に好かれたいとギターを始めたのに、やめてから彼女ができるなんて皮肉なものね。 

 それでも嬉しかった。付き合う一ヶ月前に告白して、あなたのことは知らないからまずは友達から始めましょう……そう言われたときは本当にだめかと思ったものね。前日には必死になってどんな言葉を告白に使おうかって考えてたこと、忘れたとは言わせないわよ」 

「忘れてなんていないさ」 

 そう……忘れてなんていない。あの日のどきどき感は、一生忘れるなんてことはありえないと思う。 

 彼女はまた歳をとった。髪は真っ白になり、めがねをしている。顔にはたくさんの皺が刻まれ、どこからもってきたのか黒い杖を手にして体を支えていた。それがないと彼女はすぐに折れて倒れてしまいそうなほどやせ細ってもいた。 

 しかしその目はまだ、若いままだった。 

「その子と別れた理由はなんだったかしら? 明確な理由、というのはなかったわね。強いて言えば、価値観の違いといったところかしら。 

 始めのずれはなんだったかしらね。映画の趣味だったかしら? 彼女は女の子だけどアクション映画が好きだったわね。……女の子だけどっていうのは余計ね。 

 けれどそれに対してあなたはドキュメンタリーや恋愛物、そういう落ち着いたものが好みだった。それが彼女との始めのずれ。 

 次は音楽ね。自分はやっぱり落ち着いたものが好きだったわね。ギタリストを名乗ろうとしていたくせに落ち着いたのだなんて変な話だけど。彼女はやっぱり違っていて、ロックを好んだわね。しかもビジュアル系。けれど、あなたはビジュアル系が特に嫌いだった。そして次々に、ずれが発覚していくことになったわ。 

 趣味、味覚、考え方……そんなずれが積もり積もって、関係は自然消滅してしまったわね。違うかしら?」 

 僕は首横に振る。「違わないよ。違わない」 

 ため息をついた。彼女の語りを聞いていると、大分僕の気分は落ち着いてきていた。落ち着くと、自分の頭が考え事をし始めたのがわかった。動いているのがわかる。回転しているのがわかる。そしてその速度は徐々に上がってゆく。 

「そもそも君は誰だ?」 

 僕は彼女を睨みつける。彼女はくすりと笑うと、再度姿を変化させる。身長は低くなり、体の女性的な部分も減っていく。小学生ぐらいの外見になり、スカートがズボンになり、ただのTシャツになり、色が少しくすんだ赤いランドセルを背負った姿になった。 

 そして僕は誰だか気づいた。山田久美。小学生のときに好きだった女の子。姿が変化し終わると彼女は笑った。 

「山田久美」僕はつぶやき、頭に浮かんだものを振り払うように首を振る。「けれどそんなはずはないよ。そんなはずがない。僕は彼女とろくに話したこともないし、かかわったことも少ない。言葉を交わしたのも、残念だけどほんの少しだ。だから僕は彼女についてそんなに知らないし、彼女も僕のことはほとんど知らないはずだ」 

「本当にそうなのかしら? 自分では好意を隠していたつもりかもしれないけれど、周りから見たら違うかもしれないわよ。誰にもその好意を百パーセント話していないなんて言えるかしら? 時々、気づいたら見ていたり、目が合ったりしたことが一度もないなんて言えるかしら? 言えないでしょう?」 

 やれやれ。確かにそれについては反論することはなにもない。誰にも話したことがない訳でもないし、目が合ったことも何度かある。否定したところで何の意味もない。 

 が、それだけではない。少なくとも彼女は僕が行為を寄せていた彼女でないことはわかる。それだけは絶対だ。なぜならば。 

「君はそれでも山田久美ではないことだけはわかる。これだけは事実だ。君は山田久美かもしれないが、少なくとも現実の山田久美ではない。なぜなら、僕は小学生のときの彼女しか知らないからだ」 

 彼女は微笑んだ。そして小さく頷く。 

「そうね。確かに山田久美ではないわね。少なくとも、現実の山田久美ではないわね。本当のことを言うと、私は山田久美だなんて一言も言ってないわ。それは私が言った事ではないもの。 

 それに私の形が変わった姿を見られていたけれど、そもそもあれは全て、同じ人だったなんて誰が言えるかしら?」 

「君は誰だ?」先ほどした質問を少し語調を強めて再度問いかけた。今度の質問の意味は前とは違う、もっと本質的な意味であり外見として誰なのかではなく、その中身が誰なのかという意味の問いかけ。 

「私は私よ。それ以外でも以上でも以下でもない。ただ、それと同じくして私は貴方であり、私は山田久美でもあるわ。私をなにか、名前という枠に嵌めたところで何の意味もないのよ。 

 そもそも私というものが何なのか、それを認識するためにはこの世界そのものが何なのかということを理解する必要があるわ。私は私であり、この世界でもあるの。貴方はそのことを考えたことがあるかしら? ないでしょう。 

 そもそも世界というのは何かしら? 地球は回っている? 貴方は地球を外から見たことがあるのかしら? 果物は甘い? 誰が甘いと決めたの? 周りが甘いというから、あの味が甘いと認識したんじゃないのかしら? コップを落としたら割れる、というのは何? 形は崩れてもコップはコップじゃない? もしかしたらコップという形が割れた形より異常であるかもしれないんじゃないかしら? 

 全て何かしら主観が、観測者がいるからそういったことが認識されるの。そもそもコップって何かしら? 何をコップというの? 地球って誰が名づけたの? 果物を決めたのも誰? 全て人間であった誰かが主観で決めて、誰かがその主観にのっかっているだけ。所詮壮大な伝言ゲームなのよ。誰かが主観でルールを決めてみんなが主観でルールを伝達する、いずれ貴方もそれを認識する。 

 けれど問題であるのは、最終的に物事を判断するのは貴方の主観なのよ。 

 ねぇ、私は私であり、私は貴方であり、貴方は貴方なのよ。私は常に貴方の中にいるし、貴方は常に私を内包している。私が誰かなんて問題じゃないのよ。ねぇ、どうして私が貴方の目の前に現れたのか、もう理由はわかっているのでしょう?」 

 彼女が僕の目をじっと見つめる。僕も彼女の目をじっと見つめ返した。そのまま風が吹き、優しく前髪を揺らした。 

「私はただ、貴方にそこで終わりではないということを伝えにきただけよ。わかっているでしょう? この世界には終わりなんて永遠にない。現実が現実であることに必要なのは、小説とかとは違って終わりがないということなの。 

 エンディングなんてものはないのよ。醜かろうと、世界は続いていくのよ。ストーリーなんてなく、ロマンティックさなんてものもなく、続いて続いて続いていくだけなのよ」 

「死んだらどうなる? 死んだらそこで終わりじゃないかな?」 

 僕の言葉にも、彼女の瞳は全く揺れることなどない。彼女は自分の意見に絶対的な自信があるようだった。 

「死んだら本末転倒よ。貴方の言う現実、観測者としての現実がなくなるだけよ。現実を現実としてみる人がいなくなる。現実を主観で見れなくなったら、その人にとって現実という概念自体が消滅するわ。 

 ねぇ、回りくどいことはやめましょう。ただ貴方が希望を手にしようと絶望に明け暮れようと、明日はくるってことなの。まだここで終わりじゃないのよ。続くの。貴方が貴方である限り、続き続けるのよ」 

 僕は口をつぐんだ。何も言うべきことはなかった。いや、元々言うべきことなんてなかったのだろう。何故なら彼女は僕の中で生き続け、僕の一部であるからだ。僕が僕に言うべきこと、言わなければならないことなんて存在する必要がないだろう?