ポケモンとシュガーキス

「ああ、もう! コイキングつかえねー! レヴェル上げんのがめんどいんだよ!」

 彼女が僕の横でゲームボーイのAボタンを連打している。ポケモンをやっていた。ポケモン赤。

「なんで今更ポケモンの赤やってるんだよ?」

 僕は疑問に思って言ってみた。ポケモンの最新作はゲームボーイではなく、ゲームボーイアドバンスだからだ。

「あたしはね、ゲームボーイアドバンスを持ってないの。それにポケモンのためにこれ以上お金をかけるつもりはないんだよ」

 そう言ってまた彼女はAボタンを連打し始めた。ボタンが潰れそうな勢いだと思った。

「でも、なんでポケモンを今更やるのさ?」

 僕は結局、そこが解せなかった。彼女はもうポケモンを何度となくクリアしてるし、何度もデータを消している。まだ飽きないのか。

「なんとなく。ほかにすることないからさ。いけない?」

 僕は「別に。全然いけなくないよ」と答えた。「ほら、よく言うだろ。古き良き……良き………時?」

「時代だよ、古き良き時代」彼女はそう言うとゲームボーイの電源を切った。「さすがに飽きた?」と僕が聞くと、彼女は「違う、バッテリ切れ。電池持ってない?」と答えた。

「持ってないよ。電池を使うようなものはこの家にはないからね」

 僕はあたりを指差した。電気を必要とするものはすべてコンセントで供給されていた。僕は別に電池がなくて困るようなものを使っていないからだ。

「使えねー」

 かもしれない。そういえば電池を触らなくなって何年たっているんだろう、と考えてみた。けど、分からなかった。よっぽどの間触れてないんだと思った。けど、別に問題なんてない。今はたまたま電池に触れない生活をしているだけであって、いつ電池が必要になるかもわからないのだ。もしかしたら毎日電池に触れていなくてはならないような生活が来るかもしれない、と思った。けど、すぐにその考えは散った。人間……というか僕は、そんなに生活がころころ変わるようなことはしてない。

「電池、買ってくるよ。形は?」と僕は立ち上がり、ジャケットに腕を通して聞いた。彼女は「単三四本お願いね」と答えた。彼女の持っているゲームボーイが旧式のものだということに今気づいた。初期のものではないデザインにしろ、ゲームボーイポケットよりも前の時代の産物だったらしい。

「うん、わかったよ。じゃあちょっと言ってくる」と僕が言うと、彼女は「はーい」と答えた。僕は手袋をして外に出た。外は雪が降っていた。玄関のドアを閉め、一応鍵をかけておく。そして僕は歩き出した。

 歩きながらあたりを見渡すと、風景は白一色に染まっていた。一歩踏み出すごとにサク、サク、と雪を踏む音が聞こえた。ところどころ地面のコンクリートが顔を出していることを見ると、なるほど、雪が降り始めてからあまり時間が経っていないのだな、と思った。

 それにしてもコンビニが遠いことに気がついた。歩いて片道十分。普段はその長さに気づかないんだけど、こういう寒い日に行こうとして初めて気づいた。コンビニ、結構遠いんだな、と。彼女の言葉を借りるとするならば、「使えねー、コンビニ」だ。

 それから僕は暖房の効いたコンビニで単三電池を四本買った。そういえばインスタントコーヒーが切れてたな、ということを思い出してインスタントのコーヒー(UCCのブレンドコーヒー、テイストナンバー114だ)もついでに買った。スティックシュガーも切れてた気がしたけど、あいにくコンビニには売っていなかったので諦めることにした。別にいい。温かいコーヒーは飲めるけど、甘いお湯は飲めない。だから、別に問題はない。

 コンビニから出ると雪がさっきよりも大粒でふわふわと落ちてきていた。一段と寒くなった気がする。体感温度で暖房の効いていたところから出てきたばかりだから確実とは言い切れないけど。携帯電話に温度計とかがつくと結構面白いかもな、なんて思った。

 ふと、雪を見ていたらこの雪が砂糖にならないかなと思った。なるはずがない。けど、ならないかな。ばかばかしい事だけど、一瞬だけ「誰かが雪を砂糖に出来るような機械を作ってくれないかな」と思ってしまった。だって、こんなに白くて甘そうなのに。だけど目の前にあるのは砂糖とは違うふわふわと舞う雪だけだ。

 僕は自分の家の玄関のドアのノブを引いた。ドアは開かなかった。そういえば家を出る時に鍵を閉めたんだっけ。僕はポケットから鍵を出そうとした。だけど手がかじかんでしまっていて鍵は取り出せなかった。仕方なくインターフォンを押して中にいる彼女に鍵を開けてもらった。「はい」「あ、俺だけど、鍵を開けてくれないかな。手がかじかんで鍵がつかめないんだ」

「お帰り。寒かった?」彼女がドアをあけると温かい空気と一緒に光が出てきた。「寒かったよ」「あ、雪降ってたんだ。そりゃあ寒いだろうね」

 僕は早速中に入り、彼女に電池を渡そうとした。彼女はドアの鍵を閉めてから電池を手に取った。そしてその電池は彼女のポケットの中に収まった。

「手、冷たいね。今コーヒー淹れてあげるから」

 彼女は台所の戸棚を開けた。そこで僕は彼女の目の前に先ほど買ってきたインスタントコーヒーのビンを突き出した。そして「あ、コーヒー切れてるから新しいの買ってきたよ」と言った。彼女は「あ、うん」と答えてコーヒーのビンを受け取った。彼女はそれからコーヒーカップを二つ、戸棚から取り出してテーブルの上においた。

「ミルクと砂糖はいる?」

 彼女がカップにインスタントコーヒーの粒とお湯を注ぎながら聞いてきた。僕は「砂糖、切れてるんだ。だからブラックでいいよ」と言った。彼女は「そんなこと知ってる」と言うと、彼女のバッグに駆け寄った。

「ほら、これ」

 彼女がバッグから袋を取り出した。トップバリューのスティックシュガーだった。

「どうしたのそれ?」僕は聞いた。「まさかいつも持ち歩いてるの?」

「そんなわけないだろぉ〜」と彼女は言い、僕をジト目で睨んだ。「ここに来る前に買ってきたんだよ。ほら、前に来た時にもシュガー切れてたじゃん」

「そうだっけ」と答えた。前に彼女が来た時に砂糖が切れてたかどうかを思い出そうとした。けど覚えていなかった。きっとそれは僕が日々どれだけ曖昧に生きているかの証拠だと思った。

「シュガー、いれんの?」彼女がスティックシュガーの入った袋を振りながら言った。僕は小さく頷いた。「うん、お願い」

 彼女は僕のカップにシュガーを入れた。自分のカップにはミルクとシュガーの両方を入れていた。僕はリビングのテーブルの前に腰掛けた。

 彼女がすぐに僕の元へときた。両方の手にカップを持って。僕が彼女から自分のカップを受け取ろうとすると、彼女は彼女のカップを僕に渡してきた。

「俺のカップ、そっちだけど?」

 僕がそう言うと、彼女は小さく笑った。

「別にそんなことは気にしないの。たまには取り替えて飲むっていうのも楽しいかもよ?」

 そういうものかな、と僕は思った。けど僕は気にしなかった。そういうことには僕より彼女のほうが気を使うかと思っていたんだけど、僕の勘違いだったらしい。

 僕はひとくちコーヒーを飲んだ。外を歩いてきて冷たくなった体がすぐに温まった。彼女もひとくち飲んだ。そしてはにかんだように笑顔になった。

「どうしたの?」と僕は聞いた。「何が楽しいの?」

 彼女は「ううん、何でもない」と軽く首を振って答えた。そして微笑んだまま僕を見つめてきた。時々目が合うと、彼女は首を振って「違うの、違うの」と答えた。何が違うのかはわかんないけど、彼女にとってそれは違うことなのだろう、と無理やり解釈することにした。

 僕は微笑んだままの彼女の頬を右手の平で撫でてみた。彼女は「くすぐったいよ」と少し身をよじらせた。僕はもうひとくちコーヒーを飲んだ。そして彼女にキスをした。唇にはコーヒーの温度と彼女の体温。

 コーヒーが甘かった。