「ごめんね、私、君と別れたい」

 彼女は真摯な目を僕に向けて静かに、だけどはっきりとそう言った。

 そのときの僕はなにかを言うことなんてできなくて、ただ単に首を縦に振っただけだった。それがそのときできる、僕の唯一の行動だった。

 そして僕がうなづいたと同時に、しとしとと雨が降り始めた。

 *Silver ring

「どうして?」と言いそうになる質問を飲み込む。聞いても仕方がないと思った。だから代わりに、僕は「そうなんだ」とだけ答えた。

 雨が次第に強くなってくる。頭を濡らした水滴が額をつたって頬へと流れ、最後に顎から落ちた。

「理由は、聞かないのね…?」

 僕はもう一度、ゆっくりとうなづく。彼女はそれを見て「そう……」とだけつぶやいた。

「それじゃ、私、帰るね……」

 彼女はなぜか悲しそうな声でそうつぶやくと、僕に背を向ける。見慣れた後ろ姿。いつも歩いていると揺れる彼女の髪が、雨に濡れているせいで揺れていなかった。

 彼女が一度だけ、ちらっとこっちを振り返る。けど、すぐに前を向きなおした。一瞬振り返ったときの彼女の表情は寂しそうで、僕に追いかけてきてくれることを望んでいるようだったけど、僕は彼女を追いかけるなんてことはできなかった。呼び止めることもできなくて、気づくと彼女はもう僕の視界から消えていた。

 もう誰もいない、彼女の消えた道へ向けて腕を突き出した。手を広げ、握る。その向こうにはなにもなかった。雨がその腕を容赦なく叩く。始まってからは色々あったけど、終わるのはなんてあっけないことなんだろう?

 自分の足元を見つめる。いつの間にか雨はかなり強くなってきていた。ワイシャツに跳ねる雨が、パタパタと音を立てる。降り続ける雨は、地面の土を軽く弾いて地に吸い込まれた。

 はっきり言って、彼女に対して未練がないわけじゃない。彼女はどうか知らないけど、少なくとも僕はまだ彼女のことが好きで別れる理由なんて特になかった。

 だけど追いかけたり、声をかけたりすることなんてできなかった。理由は自分にもわからない。だけど、追いかけないほうがいい。誰かが頭のなかでささやいている気がした。だから僕は彼女を追いかけなかったし、引きとめもしなかった。

「帰るか……」

 雨がさらに強くなる。いつまでもここにいても仕方ない、と僕は家を目指して歩き始めた。雨が目に入り、視界がゆがむ。色がにじむ。

 駅前にとおりかかる。僕の家に帰るには、ここを確実に通らなきゃいけないルートだ。まぶしい店の明かり、うるさい喧騒。……勘弁してほしかったけど、ここを通らないとなると凄く遠回りをする羽目になる。だから仕方ないのでそのまま進む。

 ふと、傍にあったコンビニを外から覗いた。そういえば今日はいつも読んでいる雑誌の発売日だ。立ち読みをしようか、と思うが諦める。ずぶ濡れの格好で立ち読みなんてされたら、コンビニ側としてはやめてほしいと思うだろう。

 けど少しだけ名残惜しくて、ちらりと雑誌コーナーを外から眺める。そこには目的の雑誌があった。そしてその向こうでは、僕と同じ歳ぐらいのカップルが楽しそうに話しているのが見えた。僕はそれを見ると、なんとなくここにいるのが気まずくて家に向かった。

「春樹くん?」

 突然呼び止められる。後ろを振り向くと、そこにはクラスメイトの長谷川マリがいた。

「うん。なに?」

 いきなり問いかけて用件を急かさせる。僕は今、誰とも会話をしたくない状態だった。友だちとも顔をあわせられる気分じゃなかった。今は一刻も早く家に帰り、自分の部屋でのんびりしたい気分だった。

「えと、あのですね、一応街で会ったから挨拶を……。なに? って言われるほどのことじゃないですけどね」

 彼女は僕が不機嫌なのに気づいたらしく、少し慌てたようにそう言う。

「そか。じゃね」

 僕はそう言い、彼女に背を向けた。今は話したい気分じゃない。

「あの!」

 彼女が呼び止めてくる。後ろを振り向いた。そして僕は「まだ、なにかあるのかな?」と問いかけた。すると彼女はゆっくりと首を縦に振った。

「どうして、泣いているんですか?」

 その問いかけにドキっとする。僕は目元をワイシャツの袖でぬぐう。雨で濡れてはいたけど、目元の水滴は雨水だけじゃないことはなんとなくわかった。

「なんでもないよ、ただ雨に濡れてるだけだし」

 マリにはそう言う。泣いている、なんて知られたくもなかった。あまり親しくもない女子にそんなことを知られても、ただ気まずいだけだから。

 そんななにも話したくない僕に、マリちゃんは「嘘です!」と声を張り上げた。

「嘘です! ひと一人が泣いているのに、なにもないわけがないじゃないですか」

 僕は足元に視線を落とす。つま先に雨水が落ち、弾ける瞬間が見れた。

 彼女がゆっくりと僕に近づいてくる。そして目の前までくると、うつむく僕の顔を覗き込んできた。

「話を聞かせてくれませんか?」

 マリがそう言う。変な子だなって思った。彼女には話してもいい気がした。いや、話したほうがいい気がした。

 僕は彼女の目を見る。彼女も僕の目を見てきた。彼女の目には、からかおうとかそういう気持ちはなくて、ただ真面目に「聞いてやろう」のような意思を感じた。

「いいけど……そのまえに缶コーヒーでも買おうか」


 雨の中、コンビニの軒先で雨宿りしながら缶コーヒーをちびちびと飲む男女の高校生二人。他人から見ると、なんだかそれは思い切り滑稽な気がする。

 目の前を何人もの社会人や中学生、高校生や中年のサラリーマンがなどが通り過ぎていく。腕時計を見た。もうすぐ五時になろうとしていた。

「あのさ……」

 前置きもなく話し始める僕。いろんなことをマリに話した。それこそ関係ない話まで。今日なにがあったか、昨日なにがあったか、今日の体育はサッカーをしたとか、うちの学校の田所って先生が気に食わないとか。マリは僕のどうでもいい話ひとつひとつにいちいち「うん」と相槌をいれてくれた。そして最後に彼女とついさっき別れたことについて話した。ちゃんと全部話した。僕が彼女に別れたい理由を聞かなかったことや、背を向けた彼女を追いかけなかったこととかも。僕がすべてを話し終えると、マリは「そうだったんですか」とつぶやいた。

 そのまま無言の時間が続く。マリはさっき話の終わりに「そうですか」とつぶやいただけで、それからはなにも話そうとはしなかった。コーヒーをちびちびと飲んでいるだけだ。それでも僕は彼女にいろいろ話せたおかげで、胸のもやもやが少し晴れた気がした。

「……うん、聞いてくれてありがと。俺、そろそろ行くよ。もう、五時だし、いつまでも濡れた制服着てるのも寒いしさ」

 彼女は僕の言葉を聞いてくれているのかじーっと地面を見ているばかりでわからなかったけど、僕は缶をゴミ箱に捨てると「じゃあね、また」と言って歩き出した。

「待ってください」

 マリが呼び止めてくる。彼女に呼び止められるのは、今日何度目だろう? 僕は振り返った。マリはまだ地面を見つめたままだった。

「ん?」

「えっとですね、春樹くんの彼女だった人はたぶん、今でもあなたのことが好きなんじゃないかと思います。もしかして彼女、あなたのことを試そうとしたんじゃないですか?」

 そんなことを言われても、わからないとしか答えられなかった。僕は僕で、あの子じゃない。あの子の考えることがすべてわかっているわけでもない。もう終わってしまったことだし、どうしようもない。

「そっか……。まぁいいや。それじゃまたね」

 僕はもう一度彼女に背を向けて家に向かう。頬を打つ雨が冷たい。後ろから「もう一度、その子と話してみてみたらどうですか?」とマリちゃんの声が聞こえたけど、僕はもう振り返らなかったしそれに答えもしなかった。

 夕焼けが西の空を雲越しに赤く染め上げて、雨がオレンジに輝いていた。

  □  ■  □

「なぁ、ちょっと話があるんだけどいいかな?」

 昼休み、その言葉から始めて僕は、昨日別れたばかりの彼女を学校の屋上へと連れ出した。彼女は「うん」と一言だけ答えて、僕についてきた。

 屋上に着くと、彼女はベンチへと腰掛けた。僕はそのとなりに座る。そしてなんともないように空を見上げた。真っ青な空は驚くほど高い。

「きれいな青空だな〜」

 僕がそう言うと、彼女はわざとかどうかは知らないけど、地面を見た。そして「そうだね」とだけ小さな声で言う。なんとなく、彼女は僕と会話をしたくないんじゃないかと思った。

「……あのさ、どうして別れたいと思ったのかな?」

 昨日聞きたかったことを直球で問いかける。彼女はその言葉を聞くと、完全に押し黙ってしまった。もしかすると彼女は怒ったりしてなにも答えてくれないかもしれない。けど、それでもいいと思った。それでも、自分のなかではちゃんとけりがつくんじゃないかって。

 昨日の夜を思い出す。僕は毎晩、彼女に電話をしていた。彼女から電話がくるときもあった。そしていつも、二時間も三時間もどうでもいい話に盛り上がっていたのだ。だけど昨日、僕は電話をする相手を失った。彼女と習慣的にしていた電話がなくなっただけで、昨日の晩は凄く寂しく味気のないものになっていた。それを自覚した瞬間、僕はふとんのなかで静かに泣いたのだ。僕は彼女が本当に大切だったんだと。

 そういえば誰かが大切なものはなくしてから気づく、と言っていた気がする。まさにそのとおりだ。

 キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴る。予鈴だ、昼休み終了五分前。そろそろ教室に戻らなくてはならない。次の授業は僕の嫌いな田所という先生の授業だ。

「戻ろうか?」

 僕は彼女にそう言い立ち上がる。彼女も僕に続いて立ち上がった。それを確認すると、僕は歩き出した。すると、ドスンと体に衝撃があって、僕は彼女に後ろから抱きしめられた。

「ごめんね……」

 彼女の声が聞こえた。泣いているような声にはっとする僕。急いで振り返ろうとすると、彼女は「振り返らないで!」と叫んだ。

「お願いだから……振り返らないで…」

 ひっく、ひっく、と泣き声が背中越しに聞こえてきた。彼女が泣いている。はっきりとそう思った。僕は振り返りたいと思った。振り返って慰めて、どうして泣いているのか聞きたかった。だけどそれはできなかった。きっとそれは、昨日別れ話を持ちかけられたときに理由を聞かなかった時点で、僕にはその権利がないように思えた。

 どうしようもない僕は、前に回された彼女の手を握ることしかできなかった。今の季節は夏だというのに、その手は妙に冷たく感じた。

 そのまま時間が過ぎる。昼休みなんてとっくに終わってしまった。さっきまで頭上にあった雲は、はるか遠くの空へと飲み込まれてしまった。校庭では体育の生徒がトラックを走り回っていた。それでもまだ、彼女は泣き続けていた。

「ごめんね、私さ、引っ越すんだ。遠いところに……。日本だけど、たぶんなかなか会えないところ」

 衝撃的だった。引っ越すなんてうわさでも聞いたことなんてなかったし、彼女本人もそれを口にすることなんてなかった。

「どこに引っ越すの?」

 彼女が答えた場所は遠くだった。本当に遠く。高校生の僕らには、本当にそう簡単に会えるような場所ではなかった。新幹線を使わなきゃ会えないような距離。

「それで、いつまでこっちにいるの?」

 僕がそれを聞くと、彼女は僕の背中に顔をぐしぐしと押し付ける。

「ごめんね、今日までなの。本当は明日までこっちにいるんだけど、明日はもう授業とかでないから…」

「そうなんだ……」

 どうしようもなかった。彼女の引越しを止めることもできない僕にとっては、彼女とはもう二度と会えないといった宣告を受けたのと同じことだ。

「本当にごめんね……だから、別れてほしいって……。で、でもね、私……本当は春樹と別れたくなんてないよぉ……ま、まだ、一緒にいたいよ……」

 また泣き出す彼女。さっきは嗚咽程度だったのが、今度は本格的に泣き出した。

 それに対して僕は反射的に彼女の腕を振り払い、彼女を抱きしめていた。自分の顔の下に彼女の頭。

 彼女の僕を抱きしめる力が強くなった。僕は彼女の頭をなでた。

 なにを言うべきか? いや、そんなことわかってる。言いたいことを言えばいい。ただそれだけ。

「えっと……」

 僕がそう話始めようとすると、彼女が体をこわばらせた。仕方なく、僕が彼女の頭をぽんぽんと叩くと、すぐに彼女のこわばりが取れた。きっとなにを言われるのか不安なんだろう。

「俺だってまだ好きだし、離れたくなんてない。だけど、引越しをとめられるわけでもなくてさ、だから……」

 その先の言葉を一回飲み込む。気づくと彼女は僕の胸元から顔を見上げるようにあげていた。上目遣いの目が、涙のせいで赤くなっていた。

「だから…?」

 彼女が言葉の先を促してくる。僕は一度「うん」とうなづいて、残りの言葉……さっき飲み込んだばかりの言葉を吐き出した。

「……俺が高校卒業するまで、待っていてくれないかな? 俺、バイトして金貯めて、一人暮らしができるようになったら、絶対お前のところに行くから。だから……待っていてくれないかな」

 僕がそう言うと、彼女は「……ありがと」と言って僕から離れた。それからにこっと笑う。

「それじゃあ、もうお別れだよ。私、絶対に君のこと待ってるから。君も、浮気なんてしちゃだめだよ?」

 彼女がそう言い、ポケットからなにかを取り出すと僕に投げつけてくる。それを右手でキャッチすると、もう周りには誰もいなくなっていた。屋上に来るための階段からは、誰かが降りていく足音が聞こえていた。その誰かはわかりきっていることだけど。

 右手を開く。そこには銀の指輪。よく見ると、その指輪の内側には
「Happy birthday HARUKI」と書いてあった。

 そういえば今日は僕の誕生日だったのか……。忘れてたことが少し恥ずかしい。

「春樹ー!」

 遠くから名前が呼ばれる。どこからの声かと探すと、正門のところに彼女がいた。

「たんじょーび、おめでとー!」

 彼女が叫ぶ。僕はゆっくりと手を上げた。

「ありがとー!」

 僕の声は遠くまで響いて、グラウンドのみんなが振り返っていた。