アンダースタンド

 二人並んで夜の道を歩く。特に僕からはなにも話さなかった。彼女も僕にはなにも言わなかった。だけれどそれでも二人で並んで歩いた。なにも話せなかった。なにも話さなかった。

 なんてったって僕らは別れがわかっていたからだ。人はいつか別れるとわかって「いない」から色々と話せるけれど、いつ別れるかわかって「いる」場合なにを話せばいいかなんてわからないものだと思う。

 たぶん、二度と会えないと思っていたんだ。事実、二度と会えないのだろう。だから何を話そうか、と二人して一生懸命考えていたのだろうと思う。もともと僕は話上手でもなく、彼女も口が回るというほうではなかった。語り手、というよりは聞き手側の人間。なにも話せないのは当然だった。いつも見ているテレビ番組について話すわけにもいかないし、もう二度も顔をあわせることのないクラスメイトの悪口に興じるのも抵抗がある。音楽の話題? テレビ番組の話題と大して違いがないじゃないか。

 そんなわけで僕らは無言でただただ並んで歩いた。何かを話さなくちゃとは思っていた。何かを話そうと考えた。何も話すことができなかった。

 僕らの前方をぽつぽつとある街灯が照らしている。それを通り過ぎるたびに隣を歩く彼女をちらりと見た。一番明るい街灯の真下を通り抜け、徐々に暗くなっていくそのときだ。無言で歩く、別れることがわかっている雰囲気で歩く。正面きって顔を見る気には到底なれなかった。きっと僕は涙ぐんでいる。目が合ったらたぶん、彼女は泣いてしまうだろう。だから僕はできるだけ彼女を見ないようにして歩いた。

 それでも時々、彼女は思考の末か「ねぇ……」と話しかけてきた。そのたびに僕は「何?」と訊いた。けれど、すぐに「……なんでもない」と言った。そしてうつむく。うん、わかっている。なにか話そうと思い、なにも話せなかったのだ。わかっている。僕も同じ気持ちだ。

 けれどなにもできずに歩くだけだった。少し遠くに駅が見えた。小さな駅。とてもとても小さくて、僕らからの距離だと片手にすっぽり収まりそうなぐらいのサイズ。そこについたらこれも終わり。寒い冬の現実から想い出へと変化する。温度もなくし、感覚もなくし、ただただそこにあったという事実に転換される。

 空を見上げた。真っ暗だった。すごく多い数の星が空一面に輝いていた。綺麗だと思った。けれど、呟かなかった。目に砂が入った。空を眺めるのをやめた。

「なぁ」

 僕が口を開く。その夜道、最後の夜道で僕から話しかけた最初で最後の一言。

「なあに?」

「いつかまた会おうな」

 彼女はそれに答えず、頷いたのか俯いたのかわからないしぐさをする。けれど、それでもよかった。それだけでも僕には十分だった。それ以上の言葉はいらなかった。それ以上のモノを貰ってしまったら僕は泣いてしまうかもしれない。

 ただたんたんと。

 ただ黙々と歩き続けた。そしてすぐに駅へとついてしまう。

 僕は切符を買うと、さよならも言わずに改札を抜けた。振り返らないでいようと思った。振り返りたくなかった。けれどやっぱり最後に彼女の顔が見たかった。彼女は両目一杯に涙を溜めながら笑顔で「また、会おうね。次に会うときはあの喫茶店で」と言った。僕はなにも答えなかった。なにも答えられなかった。視界がにじんだ。頬を何かが流れていった。泣いているのかもしれない。けれど、どうしようもなかった。涙を止めるすべなんて僕は知らない。

「さよなら」

 小さく口元で呟く。たぶん彼女には声は聞こえていない。けれど、唇の動きだけで意味はわかったのだろう。一度だけ頷いたような気がした。にじんでいて良く見えない。僕は自分の頬を触ってみる。ぬれている。泣いている。袖で涙をぬぐうと、彼女は泣いてなんていなかった。

***

 電車の座席に座り、窓の外をぼーっと眺めている。地上には街灯ぐらいしか目に付く明かりはない。時々ぽつぽつと民家の明かりが暗闇を引き裂いているけれど、暗闇の量のほうが圧倒的に多かった。

 この世界には理解できないことがたくさんある。それは人の心であったり。現実的に言えばどうして夜が暗いのかということもわかってなんていやしなかった。どうして夜が暗いのか、どうして太陽が一つなのか、どうして宇宙があるのか。全部そんなもの、答えなんてどこにもなかった。人間が勝手に答えを決め付けて、そのとおりに理解させようとしているだけのことだ。どこにも正解なんてなかった。

 考えてみろよ、人間の数。それぞれにそれぞれの考えがある。とてもじゃないけれど、両手の指の数じゃまったく足りない。それと同じでこの世界にはわからないことが多すぎて、それと同じぐらいにどうしようもないことも多すぎた。

 なんて……そんなことはどうでもいいんだ。必要なことなんかじゃない。窓の外を見る。相変わらず、街灯が無感動に暗闇を切っていく。けれど、暗闇は消えることがない。なんてったって暗闇は消えるものではない、明かりが消えるから暗闇ができるのだ。この世界はわかることよりわからないことのほうが多く、明かりより暗闇のほうが多い。

 けれど、僕にとっては本当にどうでもいい。なにかを理解しようがしなかろうが関係ない。僕は彼女のそばにはもういない。それだけわかればよかった。思考する余地もなにもない。ただ手を伸ばしてみて、掴んだものは空気だけだったという事実。その事実さえあれば、どうしようもないことは明白だった。

 もういい。寝てしまおう。大きな駅についたら電車を乗り換えなければならないけれど、それまでなら寝てもいいだろう。そして叶うことはないけれど、起きたときに彼女が隣にいますように。叶わない夢でも、願う自由はある。

 まぶたを閉じたその奥で、街灯が何度も暗闇を引き裂いていく。なんども。何度も。