世界の車窓から


路面電車に揺られ君のいる街を目指す。片道八百三十円。

辺りは夜だというのに、繁華街の明かりが眠りを拒む。ざわざわと音を立てて時間だけが過ぎてゆく。道行く人は疲れた顔をして先を急いでいる。

車内では周りと時間の速さが違うらしい。全員静かにしている。会話なんてなく、ただただ押し黙っている。サラリーマンは時計を見ないし、恋人たちは静かによりそっているだけ。ここには人なんて存在しない。あるのは意識というものだけ。

路面電車はひた走る。ただの大きな箱として。

駅に停まると誰も降りずに、中学生ぐらいの男女が乗り込んできた。女の子は心配そうな顔をして俯いている。となりでは男の子が大丈夫、大丈夫だよと励ましている。彼らになにがあったのだろう? 想像してみるけれど、そんなことはわからない。

路面電車はひた走る。それは物語なんて運ばず、ただの肉体を移動させるだけ。

僕は家族のことを考えた。たぶん今頃夕食を楽しんでいるだろう。暖かいシチューに舌鼓を打っているだろう。着ているジャケットのポケットの中身をあさってみる。入っているのはキャンディがふたつ。やれやれ、これがなんの役に立つ?

路面電車はひた走る。誰かのためではなく、ただ自分達の利益のために。

見知らぬ駅で停車する。すでに静かなベッドタウン。サラリーマンがひとり降り、入れ違いに制服の女の子が乗ってくる。顔を見るといくつかの痣。なにがあったのだろう? 想像してみても、わからない。わかるはずがない。

突然中学生ぐらいの女の子が泣きだす。声を押し殺し、嗚咽だけが聞こえる。男の子が大丈夫だよと言い続け、女の子の頭をやさしくなでる。乗車している人の視線が集中する。やれやれ、これじゃいい見せ物じゃないか。

路面電車はひた走る。早く走ろうと、涙が乾くことはない。

僕はため息をひとつ吐き、座席から立ち上がる。中学生ぐらいの男女の前に立つ。僕に気付いた男の子が睨み付けてくる。なにがそんなに睨む原因になるのだろう。

僕はポケットから二つのキャンディを取り出す。食べるかな? 声をかけてみる。そこでやっと女の子が僕に気付き顔を上げる。キャンディをひとつ差し出すと、彼女は茫然としたままそれを受け取った。男の子を見ると、睨み付けてきたまま小さく首を横に振った。僕は少しほほえんでから席に戻る。女の子が泣き止み、小さくありがとうと漏らした。

路面電車はひた走る。君のいる終点までガタゴトと。

窓の外では街頭が闇を切っているのが見える。雪が降りはじめたようで、景色に白が交じる。風もでてきて電線が鳴く。今夜は吹雪くのだろうか?

再度駅に着く。中学生の男女が下車する。サラリーマンやOLも降りる。音を立てて電車が発進しはじめたとき、車内に残っていたのは僕と顔に痣のある女の子だけになる。

路面電車はひた走る。次に着く駅は終着駅だ。このさきには続きはない。

突然痣のある女の子が泣き始めた。声を殺して静かに静かに。僕は本日二度目のため息をつき、やれやれ、と腰を浮かせた。女の子に近づいてとなりの席へそっと腰掛けると、キャンディを取り出す。食べる?

彼女は僕に気付き、そっと首を横に振る。仕方なく、取り出したキャンディは自分で食べることにした。甘味が口のなかで広がる。

どうしたの? 問い掛けてみても、女の子は首で拒否をしめす。まったく、僕もお人好しだね。肩を竦めたあと、時計を見る。到着にはまだわずかばかりの時間がある。

口下手の僕が君にひとつ話をしてあげよう。と僕がいう。別に物語じゃないから、適当に聞き飛ばしてくれ。

どうして人は泣くのだろう。それは悔しいことや悲しいことがあったときの感情表現に過ぎない。

ではどうして人は泣くところを人に見せようとしないのだろう。それは恥ずかしい行為だからだ。人が恥ずかしい行為と感じるものは特徴がある。それはすべて弱点だということだ。攻められる要因があるかもしれない、外敵がきたら守れないであろう状態、そういったものを人は恥ずかしいと感じる。人も所詮動物であり、身の危険には敏感であるということだね。

さて、では今なにが君を攻めるのだろう。今ここに君の安全を脅かすものが存在するのかな? 僕は君を攻めたりなんてしないよ。そんなことする気なら、こんな話はしていない。そしてここは箱のなかだ。世界とは断絶し、ここには君と僕しかいない。君の安全を脅かすものが存在しない。

なら、どうして君は泣かないのだろう?

路面電車はひた走る。君の涙の音をかき消すために。

僕は腕時計を眺める。もう時間はだいぶ遅い。終点に住む君はまだ起きていてくれているかな?